父の御心に適うこと 2014年6月01日(日曜 朝の礼拝)
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父の御心に適うこと
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 11章25節~27節
聖書の言葉
11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。
11:26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。
11:27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。マタイによる福音書 11章25節~27節
メッセージ
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今朝はマタイによる福音書11章25節から27節より、御言葉の恵みにあずかりたいと願います。
25節、26節をお読みします。
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです。父よ、これは御心に適うことでした。」
イエス様は、天地の主である神様を「父よ」と呼びかけ、ほめたたえています。イエス様は、天地の主である父を賛美しているのです。このことは、私たちに奇妙に思えるかも知れません。なぜなら、私たちは、前回、イエス様がガリラヤの町々をお叱りになったことを学んだばかりであるからです。ガリラヤの町々は、イエス様の数多くの力ある業を目の当たりにしても、イエス様の内に働く神の知恵を認めることができず、悔い改めなかったのです。しかし、すべての人が信じなかったわけではありません。イエス様を信じる者たちもいたのです。その信じる者たちに思いを向けて、イエス様は天地の主である父をほめたたえているのです。なぜなら、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しにな」ることこそ、父の御心に適うことであったからです。「これらのこと」とは、「イエス様が行われた数多くの力ある業の内に、神の知恵が働いておられること」であります。イエス様は、目の見えない人を見えるようにされ、足の不自由な人を歩けるようにされ、重い皮膚病を患っている人を清くされ、耳の聞こえない人を聞こえるようにされ、死者を生き返らせ、貧しい人に福音を告げ知らされたのですが、知恵のある者や賢い者は、そこに神の知恵の正しさを認めることができず、イエス様を来たるべき方、メシア、救い主として受け入れることができないのです。そして、それはイエス様によれば、天地の主である父が、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して」おられるからであるのです。「知恵ある者や賢い者」とは、社会的指導者であった律法学者たちやファリサイ派の人々のことを指しています。聖書が約束している救い主としてイエス様は来られました。そうであれば、聖書の専門家である律法学者たちやファリサイ派の人々が、イエス様を真っ先に信じても良さそうなものであります。しかし、実際はそのようにはなりませんでした。律法学者たちやファリサイ派の人々は、イエス様について、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言って、受け入れないのです。それはなぜか?イエス様は、天地の主である父が、これらのことを知恵ある者や賢い者には隠されたからであると言われるのです。ある研究者は、「このように考えることができたゆえに、イエス様は福音宣教に挫折することはなかった」と言っています。律法学者たちやファリサイ派の人々に嘲られ、またガリラヤの町々に住む人々が悔い改めない現実を前にして、イエス様が福音を語り続けることができたのはなぜか?それは、イエス様が、天地の主である父の御心に思いを向けていたからであるのです。イエス様は、これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになることが父の御心に適うことであるゆえに、天地の主である父をほめたたえるのです。「幼子のような者」とは「無学で単純な人」を指しています。イエス様が行われた力ある業に、神の知恵の働きを認めたのは、知恵ある者や賢い者ではなく、幼子のような者たちでありました。このことは、イエス様の最初の弟子たちが漁師であったことに端的に表れています。イエス様の内に神の働きを認めたのは、幼子のような無学で単純な人たちであったのです。そして、このことは旧約聖書に預言されていた父の御心に適うことであったのです。
神様が「これらのことを知恵ある者や賢い者に隠される」ことについては、イザヤ書29章13節、14節にこう預言されています。旧約の1105ページです。
主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」
このイザヤの預言は、イエス様の数多くの力ある業を目の当たりにしても、そこに神の知恵の働きを認められない律法学者たちやファリサイ派の人々によって実現したと言えるのです。
また、「これらのことを幼子のような者にお示しになった」ことについては、詩編19編8節にこう預言されています。旧約の850ページです。 主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で無知な人に知恵を与える。
この「無知な人」こそ、「幼子のような者」のことであります。彼らがイエス様の内に働く神の知恵の働きを認めることができたのは、神様が彼らにこの世の知恵ではなく、上からの知恵を与えてくださったからであるのです。このように、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しにな」ることは、旧約聖書に記されていた天地の主である神の御心であったのです。では、今朝の御言葉に戻ります。新約の20ページです。
イエス様は、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しにな」ったことが父の御心に適うことであったと言われますが、なぜ、神様はそのようになされたのでしょうか?それは天地の主である神様の主権によるものだと言えばそれまでですが、使徒パウロは、このことについて興味深いことを記しています。コリントの信徒への手紙一1章18節から31節までをお読みします。
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものとする。」知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
ここでパウロが教えていることは、今朝のイエス様の教えに通じるものであります。神様は、知恵のある者ではなく世の無学な者を、力ある者ではなく無力な者を選ばれました。実際に、コリントの教会には、人間的に見て知恵ある者が多かったわけでも、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありませんでした。なぜ、神様は、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのか?それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためであります。今朝の御言葉で言えば、私たちが「天地の主である父のみをほめたたえるようになるため」であるのです。自分の知恵や賢さをほめたたえるのではなく、父なる神をほめたたえるように、神様は幼子のような、無学で単純な私たちに御自身を現してくださったのです。では、今朝の御言葉に戻ります。新約の21ページです。
27節をお読みします。
すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と子が示そうと思う者のほかに、父を知る者はいません。
イエス様は、「すべてのことは、父からわたしに任せられています」と言われていますが、ここでの「すべてのこと」とは、父なる神を啓き示す、啓示の業に関するすべてのことであります。神様が御自身をある者には隠して、ある者には現されるのは、神様の主権的な意志に基づくことでありますが、そのすべてのことを、父なる神は御子イエスに任せられたのです。なぜなら、父のほかに子を知る者はなく、子と子が示そうと思う者のほかに、父を知る者はいないからです。ここで、イエス様は神様の奥義について打ち明けておられます。すなわち、唯一の神に、父と子と聖霊という三つの位格があるという三位一体の神の奥義を打ち明けておられるのです。天地の主である父と御子イエス様のと間には、「父のほかに子を知る者はない」と断言できる親密な交わり、聖霊における交わりがあるのです。人々はイエス様を正しく知ることはできませんでした。洗礼者ヨハネさえ、弟子たちを通じて、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、他の方を待たねばなりませんか」と尋ねたのです。しかし、父なる神様はイエス様を知っておられる。父なる神様は、イエス様が御自分の愛する独り子であり、御自分の御心に適う者であることを知っておられるのです(3:17参照)。そのような者として、父なる神から知られているからこそ、イエス様は神の御心を行う神の子としての歩みを続けることができたのです。
また、イエス様は、「子と子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」と言われます。イエス様は、「子のほかには、父を知る者はいません」とは言われませんでした。もし、イエス様の御言葉が、「父のほかに子を知る者はなく、子のほかに父を知る者はいません」であるならば、父と子との交わりは開かれていない、閉ざされた関係であります。だれも、父と子との交わりに加わることはできません。しかし、イエス様はそのようには言わないで、「子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」と言われるのです。「子が示そうと思う者」とは、25節の御言葉で言えば、「幼子のような者」のことであります。幼子のような者に、神の知恵の働きを現すことは神の御心であり、神の喜びとするところでありますが、それは、イエス様に任せられていることであるのです。無学で単純な私たちが、イエス様の内に働く神の知恵を認めることができたのはなぜか?それはイエス様が聖霊を与えて、私たちに父を示してくださったからであります。私たちは聖霊によって御子イエス様と結びつき、イエス様にあって神の子とされ、父と子との愛の交わりに加えていただいたのです。そのようにして、私たちをも天地の主である父をほめたたえるものとされているのであります。ここに集う幼子のような私たち自身のゆえに、私たち自身を根拠として、私たちは天地の主である父なる神をほめたたえることができるのです。