今の時代を何にたとえたらよいか 2014年5月18日(日曜 朝の礼拝)

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今の時代を何にたとえたらよいか

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 11章16節~19節

聖句のアイコン聖書の言葉

11:16 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
11:17 『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』
11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、
11:19 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」マタイによる福音書 11章16節~19節

原稿のアイコンメッセージ

 私たちは、2節から6節までに記されている洗礼者ヨハネとイエス様との問答をとおして、イエス様こそ、「来たるべき方」、メシア、救い主であることを学びました。また、7節から15節までに記されているイエス様の御言葉によって、洗礼者ヨハネこそ、「預言者以上の者」、「現れるはずのエリヤ」であることを学んだのであります。では、当時の人々は、洗礼者ヨハネとイエス様に対して、どのような反応をしたのでしょうか?今朝は、そのことを、16節から19節の御言葉をとおして学びたいと願います。

 16節から19節までをお読みします。

 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌たったのに、悲しんでくれなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

 イエス様は、今の時代の人々を、広場に座って、ほかの者に呼びかける子供たちにたとえられます。この子供たちは、ほかの子供にこう呼びかけるのです。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった」。ここで、子供たちは、ほかの子供に、婚礼ごっこをしようと呼びかけるのですが、ほかの子供はそれに応じませんでした。また、子供たちは、ほかの子供に葬式ごっこをしようと呼びかけるのですが、ほかの子供はそれに応じなかったのです。呼びかけに答えてくれないほかの子供がノリが悪いのでしょうか?そうではありません。ここでイエス様がおっしゃりたいことは、呼びかける子供たちの身勝手さであるのです。今の時代の者たちは、洗礼者ヨハネに結婚の陽気さを求め、イエス様に葬儀の厳粛さを求めるのです。今の時代の人々は、洗礼者ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、イエス様が来て、飲み食いすると、『見ろ大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言うのです。洗礼者ヨハネについては3章に記されていましたが、そこには、ヨハネが「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」と記されています。そのようなヨハネを、当時の人々、特に律法学者やファリサイ派の人々は「悪霊に取りつかれている」と嘲ったのです。彼らは洗礼者ヨハネの「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉に耳を傾けず、かえってヨハネに、婚礼の陽気さを求めるのです。そして、自分たちの要求にヨハネが応えてくれないと、「あれは悪霊に取りつかれている」と悪口を言ったのであります。神様は来たるべきお方の道を備えるために、人々が悔い改めるよう洗礼者ヨハネを遣わされたのですが、人々はそのヨハネに婚礼の陽気さを求めるのです。

 また、来たるべき方であるイエス様が来て、飲み食いすると、当時の人々、特に、律法学者やファリサイ派の人々は、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と嘲りました。9章の9節以下に、イエス様が徴税人マタイを弟子とされ、徴税人や大勢の罪人と一緒に食事をしたことが記されていました。そこには、ファリサイ派の人々が、弟子たちに「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と尋ねたことが記されています。また、14節以下には、ヨハネの弟子たちが、イエス様に、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないですか」と尋ねたことが記されています。当時の律法の教師たちは、徴税人や罪人と一緒に食事をすることはありませんでした。それは自分自身を徴税人や罪人と同じ者と見なす、自分を貶める行為であったからです。しかし、イエス様は徴税人や罪人と一緒に食事をなさいました。それは、イエス様が「正しい人を招くためではなく、罪人を招くため」に来られたお方であるからです。また、当時の律法の教師たちは、よく断食しました。ファリサイ派の人々は、週に二度断食したと言われています。しかし、イエス様は断食しませんでした。なぜなら、花婿であるイエス様において婚礼の喜びが到来しているからです。しかし、人々は、そのようなイエス様に、葬儀ごっこをしようと呼びかけるのです。そして、その呼びかけに応えないイエス様に対して、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と悪口を言ったのです。「見ろ、大食漢で大酒飲みだ」。これは、イエス様が宴会を好まれたことを揶揄するものですが、実は、辛辣な批判でもあります。と言いますのも、旧約聖書の申命記21章18節から21節にこう記されているからです。旧約の314ページです。

 ある人にわがままで、反抗する息子があり、父の言うことも母の言うことも聞かず、戒めても聞き従わないならば、両親は彼を取り押さえ、その地域の城門にいる町の長老のもとに突き出して、町の長老に、「わたしたちのこの息子はわがままで、反抗し、わたしたちの言うことを聞きません。放蕩にふけり、大酒飲みです」と言いなさい。町の住民は皆で石を投げつけて彼を殺す。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。全イスラエルはこのことを聞いて、恐れを抱くであろう。

 誤解のないように言いますが、このような掟は、神聖国家であるイスラエルの掟でありまして、私たちにそのまま当てはまるものではありません。このような掟は、イエス・キリストにおいて廃棄された司法律法であるのです(ウ告白19章参照)。しかし、イエス様の時代は、このような掟は有効でありました。当時の人々、特に、律法学者やファリサイ派の人々は、イエス様に対して、「見よ、大食漢で、大酒飲みだ」と言いましたが、それは、反抗する息子を訴える言葉、「放蕩にふけり、大酒飲みです」を背景にして語られているのです。そのことを覚えるとき、この言葉が、イエス様を激しく非難する言葉であることが分かるのです。もっと言えば、イエス様を死刑にすべきであるとの訴えを含み持っているのです。

 では、今朝の御言葉に戻ります。新約の20ページです。

 イエス様は、今の時代の人々を、広場に座って、ほかの子供に、婚礼ごっこをしようと、葬式ごっこをしようと呼びかける子供たちにたとえられました。彼らはヨハネが来て、食べも飲みもしないと、「あれは悪霊に取りつかれている」と言い、イエス様が来て、飲み食いすると、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言いました。今の時代の人々は、無い物ねだりをするだけで、結局は一緒に遊ぶつもりはないのです。彼らは、悔い改めを迫るヨハネに対しては、もっと気楽にやろうと言い、一緒に喜ぼうと招くイエス様に対しては、もっと真面目であるべきだと言うのです。そして、結局は、ヨハネともイエス様とも一緒にあそぶことをしないのです。これは、神様のやり方に問題があったのでしょうか?イエス様は、「ヨハネが来て」と語り、また「人の子が来て」と語っていますが、ヨハネも、人の子であるイエス様も、神様のもとから来たことは明らかであります。そうであれば、神様のなさり方が悪かったのでしょうか?そうではありません。なぜなら、イエス様はこう言われているからです。「しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される」。ここでの「知恵」は、神様の知恵のことであります。人々が、ヨハネもイエス様も受け入れない、それは神様の知恵、神様のなさり方が間違っていたのではないか?もっと人々が受け入れるように、神様はうまくやるべきではなかったのか?そうではないのです。神様のなさり方は正しかった。間違っているのは、何だかんだと言って理由をつけ、神様の招きを拒絶する今の時代の人々であるのです。

 「知恵の正しさは、その働きによって証明される」。このイエス様の言葉は、当時の金言、格言のような言葉であります。ヤコブの手紙3章13節に、「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」とありますが、その人が知恵者であるかどうかは、その人の行いによって示されるのです。神の知恵についても同じであります。神の知恵が正しいかどうかは、神の知恵の行いによって証明されるのです。そして、その神の知恵の行い、もろもろの業が、洗礼者ヨハネにおいて、さらには人の子であるイエス・キリストにおいてなされたのです。悔い改めの使者として洗礼者ヨハネを遣わし、喜びの使者としてイエス様を遣わされた神様の知恵が正しいことは、これまでのヨハネとイエス様のなさったもろもろの業によって示されたのです。

 「知恵の正しさは、その働きによって証明される」。この御言葉は、実は2節の御言葉と対応しています。2節にこう記されていました。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」。キリストのなさったこと、それこそ、知恵の働きであるのです(一コリント1:24参照)。イエス様は4節に記されているように、目の見えない人を見えるようにし、足の不自由な人を歩かせ、重い皮膚病を患っている人を清くされ、耳の聞こえない人を聞こえるようにし、死者を生き返らせ、貧しい人に福音を告げ知らせました。そのようなイエス様のもろもろの働きによって、神の知恵は正しいとされたのです。キリストのもろもろの働きによって証明された神の知恵の正しさに目を向けずに、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言うのは、そのように言う人間の方が正しくないのです。

 さて、今朝の御言葉を私たちへの御言葉として、どのように聞くべきでしょうか?神様は、またイエス様は、この地上に教会を立てられました。そして、週の日のはじめの日、イエス様の復活を記念して集まって礼拝をささげることを定められました。さらには、その礼拝で、罪の赦しが宣言され、賛美がなされ、聖書が朗読され、その説き明かしである説教が語られ、献金がささげられることを定められました。私たちは、神の御言葉に指定されたとおりに、教会として活動し、礼拝をささげているわけです(ウ小教理問50参照)。しかしながら、このような教会生活、また礼拝の持ち方は、必ずしも人々に受けがいいわけではありません。私は自分の説教について、「聖書のお話ばかりでつまらないのではないか」と考えることもあります。しかし同時に、「説教において聖書のお話をしなければ、どこで人は聖書のお話を聞けるのか」という思いもあるのです。せっかくの日曜日の朝に、教会に集まることは、人々に受け入れにくいのではないか?経済的に苦しい社会状況にあって、献金をささげることに、人々は抵抗があるのではないか?確かに、人間を中心にして考えるならば、いろいろなことが言えるでしょう。しかし、もし、人間の思いを中心にするならば、私たちは神の知恵の正しさを裏切ることになるのです。むしろ、神の知恵の正しさは、イエス・キリストの弟子である私たちの働きによって証明されるのです。私たちが、イエス・キリストの復活を記念して主の日に教会として集い、神様を心からほめたたえ、御言葉に喜んで聞き従い、感謝の献金をささげることによって、神様の知恵が正しいことが、今の時代の人々に証明されるのです。

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