受け入れる人の報い 2014年4月06日(日曜 朝の礼拝)

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受け入れる人の報い

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 10章40節~11章1節

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10:40 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。
10:41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。
10:42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」
11:1 イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。マタイによる福音書 10章40節~11章1節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイによる福音書の10章には、宣教についての弟子たちへの教えがまとめて記されています。今朝は40節以下に記されているイエス様の教えをご一緒に学びたいと願います。

 40節をお読みします。

 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」

 イエス様は、十二人を派遣するにあたって、11節から15節でこう言われておりました。「町や村に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の塵を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む」。ここでイエス様は、弟子たちを迎え入れない者たちについて教えておられますが、今朝の御言葉では、弟子たちを迎え入れる者たち、受け入れる者たちについて教えておられます。

 イエス様は、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」と言われました。ここでの「あなたがた」とは、宣教に遣わされて行く十二使徒のことでありますが、説教として聞くならば、使徒的教会である私たちのことであります。イエス様は、使徒的教会である私たちに、「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」と言われるのです。イエス様を遣わされた方とは、言うまでもなく、父なる神様のことであります。当時のユダヤにおいて、「ある人の使者ないし代理人は、彼自身も同然である」と考えられておりました。遣わされた人は、その人を遣わした人と同じように考えられていたのです。日本にも名代という言葉がありますように、遣わされた人は、遣わした人の代理人であるのです。それゆえ、神様から遣わされたイエス様によって遣わされる私たちは、イエス様の代理人であり、さらには神様の代理人であると言えるのです。私たちにとって、このことは恐れ多いことであります。しかし、イエス様が、私たちに対して、そのように言ってくださるのです。使徒パウロは、教会をキリストの体と言いましたけれども、私たちは、神様の使者であるイエス・キリストの使者として、この地上に遣わされているのです(一コリント12:27参照)。

 41節をお読みします。

 「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。」

 「預言者を預言者として受け入れる人」とありますが、これは「預言者を預言者だということで受け入れる人」のことであります(新改訳聖書参照)。イエス様は、「預言者を預言者だということで受け入れる人は、預言者が受けるのと同じ報いを受ける」と言われるのです。このことの実例として挙げられるのが、列王記下4章8節以下に記されている、預言者エリシャを受け入れたシュネムの婦人のお話であります。そのところを今朝はご一緒に読んでみたいと思います。列王記下の4章8節から17節までをお読みします。旧約の581ページです。

 ある日、エリシャはシュネムに行った。そこに一人の裕福な婦人がいて、彼を引き止め、食事を勧めた。以来彼はそこを通るたびに、立ち寄って食事をするようになった。彼女は夫に言った。「いつもわたしたちのところにおいでになるあの方は、聖なる神の人であることが分かりました。その方のために階上に壁で囲った小さな部屋を造り、寝台と机と椅子と燭台を備えましょう。おいでのときはそこに入っていただけます。」ある日、エリシャはそこに来て、その階上の部屋に入って横になり、従者ゲハジに、「あのシュネムの婦人を呼びなさい」と命じた。ゲハジが呼ぶと彼女は彼の前に来て立った。エリシャはゲハジに言った。「彼女に伝えなさい。『あなたはわたしたちのためにこのように何事にも心を砕いてくれた。あなたのために何をしてあげればよいのだろうか。王か軍の司令官に話してほしいことが何かあるか。』」彼女は、「わたしは同族の者に囲まれて何不足なく暮らしています」と答えた。エリシャは、「彼女のために何をすればよいのだろうか」と言うので、ゲハジは、「彼女は子供がなく、夫は年を取っています」と答えた。そこでエリシャは彼女を呼ぶように命じた。ゲハジが呼びに行ったので、彼女は来て入り口に立った。エリシャは、「来年の今ごろ、あなたは男の子を抱いている」と告げた。彼女は答えた。「いいえ、わたしの主人、神の人よ、はしためを欺かないでください」と答えた。しかし、この婦人は身ごもり、エリシャが告げたとおり翌年の同じころ、男の子を産んだ。

 このように、シュネムの婦人は、預言者エリシャを預言者として受け入れたことにより、大きな報いを受けることができたのです。では、今朝の御言葉に戻ります。新約の19ページです。

 私たちは、今、預言者を預言者として受け入れた人の報いとして、預言者エリシャを受け入れたシュネムの婦人のお話を読みました。しかし、イエス様が、「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける」と言われるとき、その「預言者」であり、「正しい者」とは、これから遣わされて行く弟子たちであるのです。つまり、イエス様の弟子である私たちが、「預言者」であり、「正しい者」であるのです。そのように言い切ることのできる根拠は何でしょうか?それは、私たちが受け入れたイエス・キリストこそが、預言者であり、正しいお方であるからです。「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける」。このイエス様の御言葉を正しく理解するために、私たちは、神様から遣わされたイエス様こそが、預言者であり、正しい方であることを思い起こす必要があります。「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける」。このイエス様の御言葉は、イエス様を預言者として、また正しい方として受け入れた私たちのうえに実現しているのです。そのように考えますと、「預言者と同じ報い」、「正しい者と同じ報い」が何であるかが分かってきます。その報いとは、「神様と共に生きる永遠の命」であるのです。イエス・キリストは、神様から遣わされた預言者として、また、神様の御心を完全に行われる正しい方として、十字架の死から三日目に栄光の体へと復活させられ、父なる神の右に挙げられました。それと同じ報いを、イエス様を預言者として、正しい方として受け入れた私たちは、受けることができるのです。さらには、キリストの弟子である私たちを預言者として、また正しい者として受け入れる人は、私たちと同じ報いを、すなわち、神様と共に生きる永遠の命を受けることができるのです。

 42節をお読みします。

 「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

 ここで、イエス様は、41節の「預言者」と「正しい者」を「わたしの弟子」と言い換えておられます。イエス様は、御自分の弟子である私たちを、御自分の弟子ということで受け入れる人に、必ず報いてくださるのです。なぜなら、イエス様の弟子として私たちを受け入れる人は、イエス様を受け入れることになるからです。「冷たい水を飲ませる」ことは、気候の暑いパレスチナの地において、歓迎のしるしであります。冷たい水を飲ませることは、その人を受け入れることであるのです。それゆえ、イエス様の弟子だという理由で、小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受けるのです。そして、その報いとは、神様と共に生きる永遠の命であるのです。このことは、イエス様が25章31節から40節で教えていることであります。新約の51ページです。

 人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』

 このイエス様の終末の裁きについての教えは、今朝の御言葉を背景として読むとき、よく分かります。ここで王の右に分けられた人たちは、「正しい人たち」と言われていますが、それは、イエス様の弟子である小さな者の一人を親切にし、受け入れたからであるのです。イエス様はここで直接自分を受け入れたかどうかを問われておりません。ここで問われていることは、イエス様の兄弟であり、弟子である者たちを受け入れたかどうかであります。イエス様を受け入れている、それは具体的なことであります。イエス様を受け入れること、それはイエス様の弟子である小さな者の一人を受け入れることであるのです。そのような者たちとして、私たちは世に遣わされているのです。イエス様はそれほど、私たちを大切に思っていてくださり、世の人が御自分の弟子である私たちをどのように扱うかに関心を持っておられるのです。イエス様は、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」とまで言ってくださるのです。では、今朝の御言葉に戻ります。新約の19ページです。

 イエス様は、「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と言われましたが、この「報い」とは、イエス様が与えてくださる「神の祝福」とも言い換えることができます。そもそも、イエス・キリストは神の祝福をもたらすために、この地上に遣わされたお方であるのです。かつて神様は、族長のアブラハムにこう言われました。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」(創世12:2、3)。このアブラハムに対する主の御言葉は、イエス・キリストにおいて実現いたしました。神様は、イエス・キリストを祝福する人を祝福し、イエス・キリストを呪う人を呪われるのです。なぜなら、神様の御心は、イエス・キリストによって、地上のすべての民族を祝福することであるからです。キリストの弟子である私たちは、この神様の御心を実現する者たちとして、神様の祝福の担い手として世に遣わされているのです。

 前回の説教で、私たちは、イエス・キリストを信じることにより、自分の家族の者が敵となるような状況に置かれることを学びました。イエス様を信じることによって、イエス様を信じない家族から迫害を受けるようになるのです。しかし、今朝の御言葉で教えられますことは、私たちの方から、イエス様を信じない家族を敵視してはいけないということであります(一コリント7:12、13参照)。私たちは、これから祝福を受けて、それぞれの場へと遣わされて行きます。神の祝福の担い手として、それぞれの家族のもとへ遣わされて行くのです。まだイエス・キリストを信じていない家族に祝福をもたらす者として遣わされて行くのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)。この聖書の御言葉を信じつつ、私たちはキリストの弟子として、遣わされて行くのです。

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