イエスの仲間であると言い表す 2014年3月23日(日曜 朝の礼拝)

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イエスの仲間であると言い表す

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 10章26節~33節

聖句のアイコン聖書の言葉

 10:26 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。
10:27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。
10:28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
10:29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。
10:30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。
10:31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
10:32 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。
10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」マタイによる福音書 10章26節~33節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイによる福音書の10章には、弟子たちへの宣教についての教えがまとめて記されております。前回は、16節から25節までをご一緒に学びましたけれども、今朝の御言葉はその続きとなります。なぜなら、26節の「人々を恐れてはならない」という御言葉には、「だから」という接続詞が記されているからです(新改訳、口語訳参照)。イエス様は24節、25節の御言葉を受けまして、「だから人々を恐れてはならない」と言われるのであります。24節、25節で、イエス様はこう言われておりました。「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」。私たちが迫害を受けるのは、私たちの師匠であり、主人であるイエス様が迫害を受けたからでありました。イエス様が迫害を受けられたならば、その家族の者である私たちが迫害を受けるのは当然のことであるのです。それゆえ、イエス様は、「だから、人々を恐れてはならない」と言われるのです。このイエス様の御言葉は、うまくつながっているでしょうか?「わたしが迫害されたのだから、その家族の一員であるあなたがたも迫害されるのは当然だ。だから、人々を恐れるな」と言われて、恐れから解放されるでしょうか?私は、イエス様が迫害されたことだけを思い起こすならば、それは無理だと思います。しかし、迫害され、十字架につけられたイエス様が神様によって栄光の体へと復活させられたことを思い起こすならば、私たちは人々への恐れから解放されるのではないかと思います。そして、まさに、復活されたイエス様は、今朝、聖書の御言葉を通して、私たちに、「人々を恐れてはならない」と言われるのです。

 今朝の御言葉には、「恐れるな」という言葉が三回記されています(26、28、31節)。しかし、なぜ、「人々を恐れてはならない」のでしょうか?それは、人々を恐れてしまうとき、私たちは口をつぐんでしまい、福音を宣べ伝えることをやめてしまうからです。それゆえ、福音を宣べ伝えるために遣わされる使徒たち、また使徒的な教会である私たちは「人々を恐れてはならない」のです。

 26節、27節をお読みします。

 人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。

 「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない」。これは当時のことわざではなかったかと考えられています。覆われているもの、隠されているものとは何でしょうか?それは、「イエス様こそ、メシアであり、生ける神の子である」ということです。16章に、ペトロの信仰告白の記事がありますが、そこでペトロは、イエス様に「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しました。イエス様は、それを大変喜ばれましたが、しかし、御自分がメシアであることは誰にも話さないように、と弟子たちに命じられました(16:20参照)。また、続く17章には、山の上でイエス様のお姿が変わる、いわゆる山上の変貌の出来事が記されていますが、そのときも、イエス様は、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられました(17:9)。このように、覆われているもの、隠されているものとは、「イエス様こそ、メシアであり、生ける神の子である」ということなのです。しかし、それは、現されるもの、知らされるべきものであります。それゆえ、イエス様は、「わたしが暗闇であなたがたに言ったことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを屋根の上で言い広めなさい」と命じられるのです。これは、イエス様の復活によって、聖霊を与えられた弟子たちに命じられている預言的な命令であります。イエス様が十字架の死から復活されるまで、弟子たちはイエス様からひっそりと教えを受けておりました。しかし、イエス様が十字架の死から復活され、聖霊を与えられた今は、それを公に、大胆に言い広めることが命じられているのです。

 イエス様は、「屋根の上で言い広めなさい」と言われましたが、屋根の上は、公の告知がなされる伝統的な場所でありました。では、現在、公の告知がなされるのはどこでしょうか?それは、公同の教会で行われる公の礼拝においてであります。公の礼拝において、イエス・キリストの福音が大胆に言い広められてこそ、それを聞く信徒一人一人も、大胆に福音を言い広めることができるのです。

 28節をお読みします。

 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

 イエス様は、26節で、「人々を恐れてはならない」と言われていましたが、ここでは、「人々」が「体は殺しても、魂を殺すことのできない者ども」と言い換えられています。イエス様は、17節で、「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである」と言われておりましたが、ここでも、イエス様の名のゆえに迫害を受けることが背景となっています。イエス様は、人々を恐れてしまう私たちに、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」と言われます。私たちは人々を恐れるのですが、その人々とは、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者ども」に過ぎないと言われるのです。そして、むしろ、「体も魂も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われるのです。「体も魂も地獄で滅ぼすことのできる方」とは、言うまでもなく神様のことであります。神様を恐れるとき、私たちは人々を恐れることから解放されるのです。私たちが恐れるべきは、体は殺しても魂を殺すことのできない人々ではなくて、体も魂も地獄で滅ぼすことのできる神様であるのです。

 29節から31節をお読みします。

 二羽の雀が一アサリオンで売られているのではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。

 「二羽の雀が一アサリオンで売られている」とありますように、当時、雀は、最も安い食材でありました。ちなみに、一アサリオンはローマの通貨で、一デナリオンの16分の1の価値がありました。雀は一羽では値がつかない、二羽でようやく一アサリオンの値がつく、そのような価値のないものであったのです。しかし、イエス様は、「その一羽さえも、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」と言われるのです。一羽では値がつかないような雀さえも、神様のご配慮の内にあるのです。その神様が、私たちの髪の毛までも一本残らず数えておられると言うのです。これは、私たちが神様の完全なご配慮の内に置かれているということであります。なぜなら、私たちはたくさんの雀よりもはるかにまさっているものであるからです。私たちは、神のかたちに似せて造られた人間であり、イエス・キリストにあって、神の子としていただいた者たちであるからです。

 32節、33節をお読みします。

 だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。

 このイエス様の御言葉は、地方法院に引き渡され、裁きを受けている場面を背景としています。私たちが用いてます新共同訳聖書は、このところをだいぶ意訳しておりますので、岩波書店から出ている翻訳聖書で、このところを読んでみたいと思います。「だから、人々の前で私を告白するであろう者は誰でも、私もまた天におられる私の父の前でその人について告白するであろう。しかし、人々の前で私を否むであろう者は、私もまた天におられる私の父の前でその人を否むであろう」。新共同訳聖書は、「自分をわたしの仲間であると言い表す者」と翻訳していますが、岩波書店の新約聖書では、「私を告白するであろう者」と翻訳しています。こちらの方が元の言葉に近いのですが、意味としては「イエス様との連帯を言い表す」ことが言われていますので、新共同訳は、「自分をわたしの仲間であると言い表す者」と意訳したわけです。しかし、元の言葉が「私を告白するであろう者」と記されていることを今朝は覚えていただきたいと思います。私たちが、イエス様を告白するとき、どのような言葉で告白するでしょうか?おそらく、「イエスは主である」と告白するのではないでしょうか?使徒パウロはローマ書10章9節で、こう記しています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」。イエス・キリストの弟子である私たちも、「口でイエスは主であると公に言い表し」た者たちです。その私たちの告白を自分を迫害する人々の前でも告白することがここで求められているのです。それは、言い換えるならば、私たち一人一人のうちにおられる聖霊なる神様に従うということであります。なぜなら、聖霊なる神様こそ、覆われているものを現し、「イエスは主である」と告白させてくださる方であるからです。パウロが第一コリント書の12章3節で言っているように、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」。

 前回、私たちは、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」という御言葉について学びました。「蛇のような賢さ」とは、「不注意な言動によって自ら迫害を招かない思慮深さ」であり、「鳩のような素直さ」とは、「聖霊なる神様の導きに従う素直さ」でありました。ここで、私たちに求められているのは、まさに「鳩のような素直さ」であります。「イエスは主である」と告白される聖霊の導きに従って、イエス様を「わたしの主である」と言い表すことがここで求められているのです。私たちが今、礼拝において、イエスは主であると告白しているように、自分を迫害する人々の前でもイエスは主であると告白するならば、イエス様も天の父の前で、その人について告白してくださるのです。「この者は、私の僕であり、私の弟子である」と、その人について天の父の前で告白してくださるのです。しかし、人々の前で、その人がイエス様を知らないと言うのであれば、イエス様も天の父の前でその人を知らないと言われるのであります。

 天の父の前で、イエス様から知らないと言われたその人は、果たしてどうなるのでしょうか?それこそ、魂も体も地獄で滅ぼされることになるわけです。人々を恐れてイエス様との関係を否定することによって、自分を永遠の滅びへと引き渡してしまうことになるのです。そうならないように、イエス様は前もって、迫害について預言しておられるのです。私たち一人一人が迫害する人々を前にしても、イエス様を主と告白し、死んでも生きる永遠の命にあずかることができるように、イエス様は今朝の御言葉を前もって語っておられるのです。

 迫害について語ることは、厳しいことです。そのような状況に自分が立たされたとき、果たして、どのような態度を取るであろうかと考えさせられます。そして、そこで問われるのは、イエス・キリストを復活させられた神様への信仰であります。先程、ローマ書10章9節の御言葉を読みましたけれども、ここでもう一度お読みします。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」。ここで、求められている信仰とは何か?それは、「神がイエスを死者の中から復活させられた」という信仰であります。迫害されるとき、そこで、問われることは、「神がイエスを死者の中から復活させられた」という復活信仰なのです。復活信仰があってこそ、私たちは、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」という御言葉を受け入れることができるのです。神様がイエス様を死者の中から復活させられなかったとしたら、イエス様の名によって迫害されることに何の得があるでしょうか。しかし、神様はイエス様を死者の中から復活させてくださいました。それゆえ、私たちは、聖霊によって、「イエスは主である」と告白し、神をほめたたえているのです。また、復活されたイエス様は、生きている者と死んでいる者とを裁かれるお方であります。迫害する人々の前で、私たち一人一人が「イエスは主である」と告白するためには、復活信仰だけではなく、最後の審判を信じる再臨信仰が求められるのです。復活されたイエス・キリストは、やがて来られ、すべての人を裁かれるお方である。ここまで信じて、私たちは人々を恐れることなく、「イエスは主である」と大胆に告白することができるのです。

 

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