賢く、素直になれ 2014年3月16日(日曜 朝の礼拝)

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賢く、素直になれ

日付
説教
村田寿和 牧師
聖書
マタイによる福音書 10章16節~25節

聖句のアイコン聖書の言葉

10:16 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。
10:17 人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。
10:18 また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。
10:19 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。
10:20 実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。
10:21 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。
10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
10:23 一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。
10:24 弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。
10:25 弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」マタイによる福音書 10章16節~25節

原稿のアイコンメッセージ

 マタイによる福音書の10章には、イエス様が十二使徒を遣わすにあたって語られた説教が記されています。今朝は16節から25節までを学びたいと願います。

 16節から20節までをお読みします。

 わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたのではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。

 イエス様は、使徒たちを遣わすにあたって、「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と言われます。それほど、使徒たちは危険な状況の中へと遣わされて行くのです。それゆえ、イエス様は、「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われるのです。狼の群れに送り込まれる羊である私たちが身につけるべきもの、それは蛇のような賢さと鳩のような素直さ」であるのです。

 イエス様は、「人々を警戒しなさい」と言われます。なぜなら、人々はイエス・キリストの福音を受け入れないばかりか、イエス・キリストの福音を宣べ伝える使徒たちを、迫害するからです。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである」と言われていますが、ここでイエス様は使徒たちがユダヤ人から受ける迫害を預言しております。彼らはイスラエルの民でありながら、イスラエルの王、メシアであるイエス様を受け入れず、使徒である十二人を地方法院に引き渡し、平和を乱した罰として、会堂で鞭打つのです(二コリント11:24参照)。また、「わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しすることになる」は、使徒たちが異邦人から受ける迫害の預言であります。使徒言行録を読みますと、イエス様の預言したとおりになったことが分かります。使徒言行録の5章を見ますと、使徒ペトロをはじめとする十二人が、最高法院に引き渡され、鞭打たれたことが記されています。また、24章を見ますと、使徒パウロが、総督フェリクスの前でイエス様について証ししたことが、26章には、アグリッパ王の前でイエス様について証ししたことが記されております。イエス様は、使徒たちを遣わすにあたって、「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しすることになる」と預言されましたけれども、そのことは、イエス様が十字架と復活を経て、天へと上げられた後に、現実のものとなったのです。

 ここで、イエス様が、「彼らや異邦人に証しをすることになる」と言われているように、イエス様は、使徒たちが異邦人にも御自分について証しすることになると預言しておられます。このことは、イエス様のお考えの中に、初めから異邦人宣教のことがあったことを表しています。イエス様のお考えの中には、初めから異邦人宣教のことがありましたけれども、優先順位として、契約の民であるイスラエルに使徒たちを遣わされたのです(10:6参照)。

 イエス様は、「引き渡しされたときは、どう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる」と言われます。これも、使徒たちに対する預言の言葉です。地方法院に引き渡される、あるいは、総督や王の前に引き出されると聞けば、私たちは何を言ったらよいだろうか、果たして、イエス様について良き証しを立てることができるだろうか、と心配してしまいます。しかし、イエス様は、「どう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる」と言うのです。使徒たちの中にいる父なる神の霊が、使徒たちに言うべきことを教えてくださるとイエス様は預言されるのです。そして、この預言も、使徒言行録の4章を見ますと、使徒ペトロのうえに実現したことが分かります。そこには、最高法院に引き渡された使徒ペトロが、聖霊に満たされて堂々とイエス様について証ししたことが記されています。ヨハネによる福音書において、イエス様は聖霊を「もう一人の弁護者」と言っておられますが、イエス様の御名によって父から遣わされる聖霊は、私たちの内にいて語ってくださる弁護者であるのです。イエス様を主と信じる私たちにも、弁護者、助け主である聖霊が与えられているのです。ですから、19節、20節の御言葉は、私たちに対しても語られている預言の言葉であるのです。

 21節から23節までをお読みします。

 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。

 「死に追いやる」とか「殺す」とか、物騒な言葉が記されています。しかも、それが最も親しい交わりであるはずの家族の間で起こると言うのです。これは、どういうことかと言いますと、家族の者の中からキリストを信じる者が出てきたとき、家族の者がキリストを信じた者を、他の神々を礼拝する者として死に追いやるということであります。申命記の13章の7節から10節にこう記されています。旧約の302ページです。

 同じ母の子である兄弟、息子、娘、愛する妻、あるいは親友に、「あなたも先祖も知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」とひそかに誘われても、その神々が近隣諸国の民の神々であっても、地の果てから果てに至る遠い国々の神々であっても、誘惑する者に同調して耳を貸したり、憐れみの目を注いで同情したり、かばったりしてはならない。このような者は必ず殺さねばならない。彼を殺すには、まずあなたが手を下し、民がそれに続く。

 このようなイスラエルの掟を念頭に置くとき、イエス様の物騒な預言の意味が分かってくるのではないかと思います。では、今朝の御言葉に戻ります。新約の18ページです。

 誤解のないように申しますが、先程の申命記の掟は、神聖国家としてのイスラエルに与えられた、いわゆる司法律法でありまして、イエス・キリストにあって無効とされております。現代の日本社会においては、「信教の自由」が基本的人権として保障されておりますから、家族の中で一人だけキリスト者であっても、死に追いやられるということはありませんし、あってはなりません。しかし、キリスト者であるということで、寂しい思いをしたり、悪口を言われるということはあるかも知れません。しかし、それは意外なことではなく、イエス様が前もって預言されていたことであるのです。

 また、イエス様は、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」と預言されました。これも使徒言行録を見ますと、使徒パウロのうえに実現したことが分かります。パウロは、イエス・キリストの名のために、多くのユダヤ人から憎まれました。パウロが神殿の境内で逮捕されたとき、大勢の民衆が「その男を殺してしまえ」と叫びながらついて来たことが記されています。また、四十人以上のユダヤ人がパウロを殺すまでは飲み食いしないと誓いを立てたとも記されています。イエス様を信じない多くのユダヤ人にとって、パウロは、「疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしている者、『ナザレ人の分派』の首謀者」であったのです(使徒24:5)。

 イエス様は、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」と言われたのに続けて、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と言われました。ここで、イエス様が言われていることは、「わたしの名のために、すべての人に憎まれようとも、信仰を保ち続け、救いを獲得しなさい」ということです。イエス様の名のために、すべての人から憎まれることを耐え忍ぶならば、私たちは救われるのです。

 イエス様は、「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」と命じられました。自分たちを迫害する町にとどまるのではなくて、他の町へ逃げて、そこで福音を宣べ伝えるように命じておられるのです。これは、預言的な命令でありますが、使徒言行録を見ますと、使徒パウロがこのとおりにしていることが分かります。パウロは、宣教旅行において、たくさんの町で福音を宣べ伝えましたけれども、次の町に移る契機、きっかけは、その町のユダヤ人からの迫害でありました(13:50、14:5,19参照)。私たちは、このイエス様の御言葉から、自分から迫害されることを求めたり、殉教することを求めてはいけないことを教えられます。私たちは、一つの町で迫害されたならば、他の町へ逃げて行き、そこで福音を宣べ伝えるように命じられているのです。また、迫害されたからといって、福音を宣べ伝えることをやめてはいけないのです。パウロのように、その町を去るとき足の塵を払い落とし、他の町で福音を宣べ伝えるべきであるのです。

 そのような厳しい状況に生きる使徒たちに、イエス様は慰めの言葉を語られます。「はっきり言っておく。あなたががイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」。これもイエス様が語られた預言の言葉であります。このイエス様の預言についてはいくつかの解釈があります。「人の子は来る」。この言葉についていくつかの解釈があるのです。ある人は、「人の子は来る」とは、「イエス様の復活とそれに伴う聖霊降臨を指す」と解釈します。しかし、20節で、すでに「あなたがたの中で語ってくださる、父の霊」について語られていますので、イエス様が聖霊において来られるという、この解釈は当たっていないように思います。また、ある人は、紀元70年のローマ帝国によるエルサレム陥落を指すと解釈します。ローマ帝国によるエルサレム陥落に、イエス様の人の子としての裁きを見て取り、このような解釈をするのです。確かに、紀元70年には、まだ使徒たちがイスラエルの町を回り終わっていなかったかも知れません。しかし、どうも、この解釈も、私には当たっていないように思えるのです。私が思いますに、このイエス様の預言はまだ実現していない預言であると思います。なぜなら、イエス様の十字架と復活によって、宣教の対象は、全世界にいる、すべての人々へと広がっているからです。それゆえ、聖霊の時代に生きる私たちに取りまして、イスラエルの町とは、全世界の町であるのです。このことは、私の思い込みではなくて、24章14節でイエス様が教えられていることであります。24章には、世の終わりについての説教が記されていますが、その14節にこう記されているのです。「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」。イエス様は、迫害されながらも、福音を宣べ伝える私たちを救うために、すぐに来てくださる。しかも、世を裁く栄光の人の子として来てくださるのです。

 今朝の御言葉を読みまして、イエス様を信じることは大変なことだと思わされます。イエス様を信じ、弟子となった者は、迫害に遭い、家族を含むすべての人から憎まれるというのですから。しかし、なぜ、イエス様を信じる者は迫害に遭い、すべての人々から憎まれるのでしょうか?それは、師匠であり、主人であるイエス様が、迫害を受け、すべての人から憎まれたお方であるからです。

 24節、25節をお読みします。

 弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、しもべは主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。

 イエス様は、「家の主人がベルゼブルと言われるのなら」と仰っていますが、これは9章34節のファリサイ派の人々の言葉を指しております。ファリサイハの人々は、イエス様のメシアとしての力ある業を認めず、「あの男は悪霊の頭(ベルゼブル)の力で悪霊を追い出している」と言いました。そうであれば、その家族の者たちは、ひどく言われても当然であると、イエス様は言われるのです。私たちは、イエス様が、この後、最高法院に引き渡され、迫害を受け、罪に定められ、十字架の死を死なれたことを知っております。そうであれば、私たちも同じように迫害されても当然であるのです。しかし、私たちはそのような迫害を耐え忍び、救いを獲得しなければなりません。なぜなら、私たちは、十字架につけられたイエス・キリストが三日目に栄光の体で復活されたことをも知っているからです。それゆえ、使徒パウロは、「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と記すことができたのです(ローマ8:17b,18)。

 今朝の御言葉は、使徒的な教会である私たちにも語られている預言の言葉であります。預言の言葉ですから、私たちのうえに実現するかどうかは分かりません。もちろん、私たちは無理に、自分から、このような預言を実現させることを求めてはなりません。イエス様は、使徒たちに、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われましたけれども、蛇のように賢くとは、「自ら迫害を招くような言動しない思慮深さ」を指します。迫害は避けられませんけれども、自分から迫害を招くことがあってはならないのです。しかし、迫害を受けるならば、そこでは「鳩のような素直さ」が求められます。鳩のような素直さとは、「イエス様を信じることにおいて幼子のようであること、私たちの内で語っておられる父の霊の導きに素直に従うこと」であります。

 私たちの国である日本は、かつて、キリストの教会を迫害しました。戦時中において、教会は蛇のように賢くあったと思います。蛇のように賢く振る舞い、迫害から逃れたのです。しかし、鳩のように素直ではなかったと、私は思うのです。なぜなら、教会も天皇を現人神として礼拝したからです。このような迫害は過去のことであって、再び起こらないと誰が言えるでしょうか?そのような国で福音を宣べ伝える私たちに、イエス様は今朝、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言われるのです。

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