死者を生き返らせるイエス 2014年2月16日(日曜 朝の礼拝)
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死者を生き返らせるイエス
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 9章18節~26節
聖書の言葉
9:18 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」
9:19 そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。
9:20 すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。
9:21 「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。
9:22 イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。
9:23 イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、
9:24 言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。
9:25 群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。
9:26 このうわさはその地方一帯に広まった。マタイによる福音書 9章18節~26節
メッセージ
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今朝は、マタイによる福音書9章18節から26節より、ご一緒に御言葉の恵みにあずかりたいと願っております。
イエス様が大勢の徴税人や罪人と食事をなされ、洗礼者ヨハネの弟子たちと問答しておりますと、ある指導者がそばに来て、ひれ伏してこう言いました。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」。これは、驚くべき信仰であります。ある指導者は、「わたしの娘が今にも死にそうです。どうか、手を置いて癒してください」と言ったのではなくて、「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手をおいてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」と言ったのです。この指導者は、イエス様が病人を癒すことができるだけではなく、死人をも生き返らせることができると信じたのです。なぜ、彼は、このような大胆な信仰を持つことができたのでしょうか?それは、この指導者が聖書に親しんでおり、かつての預言者たちが死者を生き返らせたことを知っていたからであります。旧約聖書を見ますと、列王記上の17章にエリヤがサレプタのやもめの一人息子を生き返らせたことが記されています。また、列王記下の4章にエリシャがシュネムの婦人の一人息子を生き返らせたことが記されています。今朝は、列王記上の17章に記されているエリヤがサレプタのやもめの一人息子を生き返らせたお話を読みたいと思います。旧約の561ページです。列王記上の17章全体をお読みします。
ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
主の言葉がエリヤに臨んだ。「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった。数羽の烏が彼に、朝、パンと肉を、夕べにも、パンと肉を運んで来た。水はその川から飲んだ。しばらくたって、その川も涸れてしまった。雨がこの地方にふらなかったからである。
また主の言葉がエリヤに臨んだ。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」エリヤは言った。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで/壺の粉は尽きることなく/瓶の油はなくならない。」
やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。
その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。彼は主に向かって祈った。「主よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。」彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」主は、エリヤの声に耳を傾け、この子の命をもとにお返しになった。子供は生き返った。エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。女はエリヤに言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」
ながく読みましたが、ある指導者が、自分の娘が死んでしまったとき、預言者エリヤが、サレプタのやもめの一人息子を生き返らせたお話を思い起こしたと思います。それゆえ、彼は、預言者と噂されるイエス様のもとにひれ伏し、「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば生き返るでしょう」と言うことができたのです。この言葉の背後には、イエス様はエリヤと同じような預言者であるという彼の信仰があるのです。
では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の16ページです。
イエス様は、ある指導者の願いを受けて、食事の席から立ち上がり、彼について行かれました。また、弟子たちも一緒について行きました。イエス様が食事の席から立ち上がり、ある指導者について行かれたことは、イエス様が死者を生き返らせることのできるお方であることを既に表しています。イエス様は、ある指導者から「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」と言われて、「いや、それは無理だ。生きているうちは望みがあるが、死んでしまえばおしまいだ」とは言われませんでした。イエス様は、ある指導者の願いを叶えるために、即座に立ち上がって、彼の家へと向かわれたのです。
その途上での出来事でありますが、すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエス様の服の房に触れました。「出血が続いている」とありますが、これは月経にまつわる婦人病の一つであったと考えられています。レビ記の15章の規定によりますと、この病は、宗教的な汚れと見なされておりました。彼女は12年もの間、汚れた者として、神様との交わりから断たれていたのです。また、汚れはうつると考えられておりましたから、汚れた者である彼女は公の場に出ることが許されず、人々との交わりからも断たれていたのです。それゆえ、彼女はある指導者のように、イエス様の前に出て、ひれ伏し願うのではなく、後ろからイエス様の服の房に触れたのです。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思って、後ろからイエス様の服の房に触れたのです。しかし、イエス様はこの女と真正面から向き合われました。イエス様は振り向いて、彼女を見ながらこう言われたのです。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」。イエス様は、汚れた者であったこの女に、「娘よ」と親しく呼びかけてくださいました。そして、十二年間も病を患っていた女に、「元気になりなさい」と言われたのです。イエス様は、「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思っていた彼女の考えを見抜かれて、「元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。イエス様は、「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」という彼女の思いを、御自分に対する信仰と呼んでくださり、その信仰のゆえに、あなたは救われたのだと宣言されたのです。そして、そのとき、彼女は治ったのです。イエス様の服の房に触れたときに、治ったのではありません。イエス様に出会い、イエス様から「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」という御言葉をいただいたとき、彼女は救われたのです。21節の「治してもらえる」の「治す」も、22節の「あなたを救った」の「救う」も、また「彼女は治った」の「治る」も、元の言葉では同じ言葉(ソーゾー)です。同じ言葉で訳した方が、福音書記者マタイが言いたいことがよく分かるかも知れません。ためしに、「救う」という訳語で統一して、21節、22節を読んでみたいと思います。
「この方の服に触れさえすれば救ってもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は救われた。
このように、「救う」という訳語で統一しますと、彼女が願ったとおりに、イエス様によって救われたことがよく分かると思います。イエス様は、救いを求める女に対して、「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。そして、そのときから彼女は救われたのであります。十二年もの間、患っていた病が癒され、神と交わりに、さらには人との交わりに生きるものとされたのです。彼女はイエス様によって、清い者とされ、人々と共に、神様を礼拝する祝福にあずかる者となったのです。
イエス様は指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆をご覧になりました。ある指導者の家に、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆がいたことは、すでに娘の葬りの式が始まっていたことを教えています。当時のユダヤでは、死んだその日に墓に葬られましたから、ある指導者が出かけている間に、家の者が葬儀のために笛を吹く者たちや泣き女たちを呼んで来たのかも知れません。しかし、イエス様は彼らに対して、「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ」と言われるのです。イエス様は、少女をこれから起こされるがゆえに、「眠っているのだ」と言われたのです。しかし、人々はイエス様を嘲笑いました。彼らは、少女が眠っているのではなくて、死んだことを知っていたからです。イエス様は、群衆を外に出すと、家の中に入り、少女の手をお取りになりました。すると少女は起き上がったのです。眠りから覚めるように、死んでいた少女が生き返ったのです。このように、ある指導者が信じたとおりに、娘は生き返ったのです。イエス様は、少女の手をお取りになることによって、指導者の御自分に対する信仰に応えてくださったのです。
先程、私たちは、エリヤがサレプタのやもめの一人息子を生き返らせるお話を読みましたが、イエス様がある指導者の娘を生き返らせた今朝のお話は、イエス様がエリヤと同じような預言者であることを教えているのでしょうか?私はそれ以上のことを教えていると思います。といいますのも、エリヤは、サレプタのやもめの一人息子を生き返らせるために、「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と祈っていたからです。それに対して、イエス様は、少女の手をお取りになって、自ら、少女を生き返らせたのです。すなわち、イエス様こそ、エリヤが「この子の命を元に返してください」と祈った、「主」であり、「神」その方であるのです。
今朝の御言葉で、イエス様は不治の病をお癒しになり、死者を生き返らせられました。そして、このことは、終末の神の国の先取りとして記されているのです。つまり、イエス様が再び来られ、完成する栄光の御国において、私たちはすべての病が癒され、生き返らせられるのです。ただ、生き返るというだけではありません。イエス様が十字架の死から復活されたように、私たちも朽ちることのない栄光の体で復活するのです。イエス様は、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる」と言われましたが、イエス様を信じる者は、たとえ死んでも世の終わりに栄光の体へと復活させられるのです。
今朝の御言葉は、イエス様こそ救い主であり、命の主であることを教えております。また、同時に、イエス様の救いと命にあずかるのは、イエス様を信じる者たちであることを教えております。イエス様の救いと命にあずかるのは、イエスを救い主、命の主と信じる者たちであるのです。使徒パウロは、「人はイエス・キリストへの信仰によって神の御前に義とされる」と教えておりますが、イエス様の教えを源としているのです。「あなたの信仰があなたを救った」。ここに、私たちが救われるのは、イエス・キリストへの信仰によることがはっきりと教えられているのです。私たちは、今、それぞれに困難の中に置かれております。そのような中にあって、私たちはイエス・キリストを救い主と信じ、日曜日を主の日として、礼拝をささげているのです。そして、そのような私たちに、イエス様は、今朝、「あなたの信仰があなたを救った」と語りかけてくださるのです。そのイエス様の御言葉をはっきりと聞きとる時、私たちは、今朝の御言葉を私たちの物語として信仰をもって受け入れることができるのです。