バラバか、イエスか 2016年1月31日(日曜 朝の礼拝)
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バラバか、イエスか
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 27章11節~26節
聖書の言葉
27:11 さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。
27:12 祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。
27:13 するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。
27:14 それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。
27:15 ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。
27:16 そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。
27:17 ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」
27:18 人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。
27:19 一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」
27:20 しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。
27:21 そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。
27:22 ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。
27:23 ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。
27:24 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
27:25 民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」
27:26 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。マタイによる福音書 27章11節~26節
メッセージ
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前回学んだ27章1節、2節にこう記されておりました。「夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した」。今朝の御言葉はその続きであります。
イエス様は、総督の前に立たれました。この「総督」とは、ローマ帝国の総督ポンテオ・ピラトのことであります。ピラトは五代目のユダヤ総督であり、紀元26年から36年までその地位にありました。最高法院において、イエス様を、神を冒瀆する者として死刑に定めた祭司長たちと民の長老たちは、イエス様をローマ帝国の総督ピラトに渡したのでした。ピラトの手によって、イエス様を殺すことにしたのです。総督ピラトがイエス様に、「お前はユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエス様は、「それは、あなたが言っていることです」と言われました。ピラトがイエス様に、このように尋問したのは、祭司長たちと長老たちが、イエス様を「ユダヤ人の王と自称する者」としてピラトに訴えたからであります。最高法院でのイエス様の罪は、自分を神と等しい者とすることによって神を冒瀆したという宗教的な罪でしたが、ここでイエス様は、自分をユダヤ人の王と自称して、ローマ皇帝の支配に逆らう政治的な罪で訴えられているわけです。使徒言行録18章に、コリントで、パウロがユダヤ人たちから、アカイア州の地方総督ガリオンに訴えられたことが記されています。ユダヤ人たちはパウロを襲って、法廷に引き立てて行ってこう訴えました。「この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しています」。すると、ガリオンはユダヤ人たちにこう言ったのです。「ユダヤ人諸君、これが不正な行為とか悪質な犯罪とかであるならば、当然諸君の訴えを受理するが、問題が教えとか名称とか諸君の律法に関するものならば、自分たちで解決するがよい。わたしは、そんなことの審判者になるつもりはない」。そして、ユダヤ人たちを法廷から追い出したのです。総督ピラトも、もし、祭司長たちと長老たちが、イエス様を、神を冒瀆する者として訴えたならば、「自分たちの律法に従って裁け」と言ったことでしょう(ヨハネ18:31参照)。しかし、祭司長たちと長老たちが、イエス様を「ユダヤ人の王と自称してローマ皇帝の支配に逆らう者」として訴えたゆえに、ピラトはイエス様を裁かないわけにはいかなかったのです。祭司長たちと長老たちは、最高法院の裁判において、イエス様が神の子であり、メシアであると宣言されたと理解しました。それで彼らは、イエス様がメシア、王であることを、この地上の国家に当てはめて、イエス様をユダヤ人の王と自称し、ローマ皇帝に逆らう反逆者として訴えたのです。
「お前がユダヤ人の王なのか」。この総督ピラトの尋問に対して、イエス様は、「それは、あなたが言っていることです」と言われました(26:25、64参照)。このイエス様の御言葉は、相手に問いを投げ返すか、間接的に答えることを拒否する言い方であります。イエス様は確かにユダヤ人の王であられますが、総督ピラトが思い描いているユダヤ人の王とはかけ離れているゆえに、「それはあなたが言っていることです」と間接的に答えることを拒否されたのです(ヨハネ18:36参照)。
イエス様は、祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えになりませんでした。ここには、祭司長たちと長老たちがイエス様をどのような言葉で訴えたのかは記されておりませんが、ルカ福音書を見ますと、彼らが、イエス様について、「この男は我が民族を惑わし、皇帝に税金を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」と訴えたことが記されています(ルカ23:2)。また、イエス様について、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張ったことが記されています(ルカ23:5)。しかし、イエス様は、御自分を正しいとしてくださる父なる神にすべてを委ねて黙り続けておられたのです。
するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と弁明を促しました。それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思ったのです。普通なら、必死になって自己弁護するはずであるのに、イエス様はどんな訴えにもお答えにならなかった。そのイエス様の心の内がピラトには全く理解できなかったのであります。
ところで、祭りの度ごとに、総督ピラトは民衆の希望する囚人を一人釈放することにしておりました。いわゆる「恩赦」(行政権によって犯罪者に対して刑罰権の全部または一部を消滅させる処分)であります。そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がおりました。このバラバについて、マルコ福音書は「暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たち」の一人であったと記しております(マルコ15:7)。この暴動がローマ帝国の支配に反対するものであったならば、バラバ・イエスこそが、ローマ皇帝に反逆する者であるのです。ともかく、バラバ・イエスという囚人は人々がよく知っている有名な人物でありました。ピラトは、人々が集まって来たときにこう言いました。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それとも、メシアといわれるイエスか」。このようにピラトが問うたのは、彼には「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたから」であります。この「人々」とは、元の言葉では「彼ら」でありまして、祭司長たちと長老たち、最高法院の議員たちを指しています。ピラトは、イエス様がローマ皇帝に反逆する者ではなく、最高法院の議員たちのねたみのために、連れて来られたことが分かっていた、と言うのです。そうであれば、イエス様を殺そうとしているのは、最高法院の議員たちだけであって、民衆はそのようなことを望んでいないはずであるとピラトは考えたのです。それで、ピラトは、民衆に、「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか」と問いかけたのです。民衆が当然、「メシアといわれるイエスを」と答えると思って、ピラトはそのように問いかけたのです。
一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言がありました。それは次のような伝言であります。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました」。ここでイエス様が「あの正しい人」と言われています。ピラトの妻は昨夜見た夢によって、そのことを神様から示されたのです(1:20、2:12、13、19参照)。異邦人であるピラトの妻は、夢で神様のお告げを受けて、イエス様を正しい人と呼ぶのです。最高法院の議員たちが罪に定めたイエス様を、正しい人と言うのです。
ピラトは、最高法院の議員たちがイエス様を引き渡したのは、彼らのねたみのためであり、民衆は、イエス様の釈放を願っていると考えておりました。しかし、祭司長たちは、バラバを釈放して、イエス様を死刑にしてもらうようにと群衆を説得したのです。最高法院の議員たちは、民衆に、イエス様が偽メシアであり、神を冒瀆する者であると言ったのでしょう。最高法院の決定は神の名による決定であり、神の意志として受け止められておりました。そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、民衆は「バラバを」と答えたのです。祭司長たちや長老たちに説得された群衆は、メシアと言われるイエスではなく、暴動のとき人殺しをして捕らえられていたバラバ・イエスを選んだのでした。ここにも、当時の人々の救いについての考え方がよく表れていると思います。群衆は、バラバ・イエスをあたかもユダヤ民族の自由のために戦った英雄のように見なして、彼の釈放を要求したのです。
そこでピラトは、こう言いました。「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」。このピラトの言葉に対して、皆は、「十字架につけろ」と言いました。祭司長たちと長老たちから、イエス様を死刑に処してもらうようにと説得されていた群衆は、「彼は十字架につけられるべきである」と答えたのです。十字架刑は、ローマの処刑方法であり、奴隷の重罪人や属州の反逆者に対して行われた処刑方法でありました。十字架刑は、当時、最も忌まわしい、屈辱的な殺され方であると見なされていましたが、ユダヤ人にとってはなおさらのことでありました。なぜなら、旧約聖書の中に、「木にかけられた者は、神に呪われたものだからである」と記されていたからです(申命21:23)。群衆は皆、メシアと言われるイエス様を、十字架の死、呪いの死に引き渡すように要求したのです。ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言いましたが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けました。祭司長たちと長老たちに説得された群衆は、イエス様を神を冒瀆する者として、あくまでも呪いの死に引き渡そうとするのです。ある説教者は、「数日前に、子ろばに乗ってエルサレムに入ったイエス様を、『ダビデの子にホサナ』と言って歓迎した群衆が、ここでは、イエス様を『十字架につけろ』と叫んでいる」と述べておりましたが、私はその指摘は正しくないと思います。21章で学んだように、エルサレムに入られたイエス様を、「ダビデの子にホサナ」と言って歓迎したのは弟子たちであり、イエス様の前に後にと従ってきた大勢の群衆でありました。エルサレムで過越の祭りを祝うために、イエス様と一緒にエルサレムに入った巡礼者の一団が、イエス様に対して、「ダビデの子にホサナ」と叫んだのでありまして、エルサレムの人々は、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだのです。ですから、群衆の中には、イエス様を歓迎した人もいたかも知れませんが、そのほとんどは、イエス様のことをよく知らない人たちであったのです。それゆえ、彼らは自分たちの指導者である最高法院の議員たちから、「あいつは神を冒瀆する者だ」と説得されて、「十字架につけろ」と叫び続けたのです(ヨハネ16:2参照)。
ピラトは、祭司長たちと長老たちがイエス様を自分に引き渡したのはねたみのためだと分かっておりました。また、イエス様が十字架につけられるような悪事を働いていないことも分かっておりました。ですから、ピラトはイエス様を釈放したかったはずです。では、なぜ、ピラトは、イエス様を十字架の死へと引き渡したのでしょうか?それは、群衆が「十字架につけろ」と激しく叫び続け、そのとおりにしなければ、騒動が起こりかねなかったからです。それでピラトは、水を持ってこさせ群衆の前で両手を洗いました。そのようにして身の潔白を示した後で、こう言うのです。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」。このピラトの言葉の前提には、「十字架刑につけられた人が、何の悪事も働いていなかったならば、その血の責任は裁いた人に求められる」ということがあります。裁判官であるピラトには、イエス様が十字架につけられるような悪事を働いていないことは分かっています。しかし、騒動を起こしかねない群衆によって、イエス様を十字架につけざるを得ないわけです。それで、ピラトは、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」と言ったのです。この言葉は、最高法院の議員たちが、イエス様を裏切ったユダに対して言った言葉と同じです(27:4参照)。祭司長たちと長老たちは、ローマ帝国の総督ピラトの責任において、イエス様を殺そうとしたのでありますが、総督ピラトはそのことをよしとせず、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」と突き放すのです。このピラトの言葉を受けて、民はこぞってこう答えました。「その血の責任は、我々と子孫にある」。ここで「民」と訳されている言葉は、神の民をあらわす「ラオス」というギリシャ語であります。これまで「群衆」と訳されている「ホクロス」というギリシャ語が用いられていましたが、25節では、神の民を表す「ラオス」という言葉が用いられているのです。これは意図的であります。福音書記者マタイは、「群衆はこぞって答えた」と記さないで、「民はこぞって答えた」と記すことにより、神の民イスラエルが、メシアであるイエス様を公に拒絶して、死へと引き渡してしまったことを記しているのです。このようにして、イエス様の御言葉、「言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」という御言葉が現実のものとなるのです(21:43)。神の民であるイスラエルは、約束のメシアであるイエス様を公に拒絶し、呪いの死に引き渡すことによって、神の民としての特権を自ら手放してしまうのです。神の民イスラエルは、「その血の責任は、我々と子孫にある」という言葉によって、イエス様の血の責任を引き受けました。それほどまでに、彼らは最高法院の言葉を、イエス様が神を冒瀆する者であるということを信じていたのです。では、イエス様は、最高法院が言っていたように、偽メシア、神を冒瀆する者だったのでしょうか?もし、イエス様が死から三日目に復活されなかったら、最高法院は正しかったと言えるかも知れません。しかし、神様は、最高法院の判決を覆されるように、死から三日目にイエス様を栄光の体で復活させられました。神様が夢の中でピラトの妻に示されたとおり、イエス様は「正しい人」であったのです。それゆえ、ユダヤ人はイエス様の血の責任を負うことになるのです。イエス様の裁判からおよそ40年後の紀元70年に、エルサレムはローマ帝国の軍隊によって滅ぼされます。そのようにして、神の民イスラエルは、正しい人イエス・キリストの血の責任を問われることになるのです(エレミヤ26:15参照)。