ユダの末路 2016年1月24日(日曜 朝の礼拝)
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ユダの末路
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- 村田寿和 牧師
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マタイによる福音書 27章1節~10節
聖書の言葉
27:1 夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。
27:2 そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。
27:3 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、
27:4 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。
27:5 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
27:6 祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、
27:7 相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。
27:8 このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。
27:9 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。
27:10 主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」マタイによる福音書 27章1節~10節
メッセージ
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今朝は、マタイによる福音書27章1節から10節より、御言葉の恵みに御一緒にあずかりたいと願っております。
前回、私たちは、鶏が鳴く前に、ペトロが三度イエス様を知らないと言ったお話を学びました。鶏は夜明けを告げる鳥でありますから、ペトロは夜が明ける前に、イエス様のことを三度知らないと言ったのです。
夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエス様を殺そうと相談しました。イエス様を、神を冒瀆する者として、死刑にすることは既に決定済みのことでありました(26:65、66参照)。ここで彼らはその決定をどのように実行すべきかを話しあったのです。そして、彼らは、イエス様をローマの総督ピラトに「ユダヤ人の王」と自称する者として訴えることにしたのです(27:11参照)。最高法院での裁判におけるイエス様の罪は、神を冒瀆する罪でありました。しかし、彼らはイエス様をユダヤ人の王と自称し、ローマ帝国の支配に逆らう者として訴えるのです。(使徒18:14、15参照)。紀元6年からユダヤはローマ総督の管理下に置かれておりました。ピラトは五代目のユダヤ総督で、26年から36年まで在位しました。使徒信条に主イエス・キリストが「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」たとありますが、イエス様を裁き、十字架刑に処したのは、このピラトであったのです。祭司長たちと民の長老たちは、なぜ、イエス様を縛って引いて行き、総督ピラトに渡したのでしょうか?一つの理由は、最高法院には人を死刑にする権限が与えられていなかったからです。最高法院には自治権が与えられておりましたが、死刑にする権限は与えられておりませんでした(ヨハネ18:31参照)。それで、彼らはイエス様を殺すために、ローマの総督ピラトのもとへ引いて行ったのです。また、考えられるもう一つの理由は、最高法院がイエス様の血の責任を負いたくなかったということであります。最高法院は、民衆からの非難を避けるために、ローマの総督ピラトにイエス様を引き渡したのです(使徒5:28参照)。
話の流れとしては、2節から11節に飛んだ方が、スムーズなのですが、福音書記者マタイは、3節から10節に、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダのことを記しております。イエス様を大勢の群衆の手に引き渡したユダがその後どうなったのかがこの所に記されているのです。
そのころ、イエス様を裏切ったユダは、イエス様に有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、こう言いました。「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」。ここで「イエス様に有罪の判決が下ったのを知って」とありますが、ユダの言葉から推測しますと、ユダは「イエス様に死刑の判決が下った」ことを知ったようであります。ユダはイエス様に無罪の判決が下るとでも思っていたのでしょうか?あるいは、鞭打ちの刑の判決が下るとでも思っていたのでしょうか?ともかく、イエス様を引き渡したユダが、イエス様に死刑の判決が下ったことを知ったとき、彼は後悔の念に駆られたのです。「後悔」とは、「前にした事を後になって悔いること」であります。何であんなことをしてしまったのだろうとユダは自分で自分を責めて、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとしたのです。この銀貨三十枚は、ユダがイエス様を引き渡す対価として祭司長たちから受け取ったものであります。26章14節から16節にこう記されておりました。「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた」。ユダは、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返すことにより、自分がしてしまったことをないことにしたいと願ったのです。ユダは、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに差し出しながら、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言いました(申命27:25「賄賂を取って、人を打ち殺して罪のない人の血を流す者は呪われる」参照)。ユダは最高法院の議員たちがイエス様を捕らえ殺そうとしていることを知っておりながら、イエス様を彼らの手に引き渡したのです。ユダはイエス様を銀貨三十枚で売ったのです。それはユダにとって些細なことであったのだと思います。ユダは最高法院の議員たちがイエス様を捕らえるのに良い機会を提供しただけです。彼が実際にしたことは、大勢の群衆を引き連れて来て、イエス様に接吻したことだけであります。しかし、イエス様に死刑の判決がくだったことを知ったとき、彼は自分がしたことを後悔したのです。彼は自分がしたことが、結局は、「罪のない人の血を売り渡す」という罪であったことに気づいたのです。「罪のない人」とはイエス様のことでありますから、ここでユダは、イエス様の無罪を主張していると読むことができます。イエス様を裏切ったユダが、イエス様の無罪を主張して、自分の罪を認めているのです。そして、このユダの言葉は、自分の罪ばかりでなく、自分に銀貨三十枚を支払い、イエス様に有罪の判決を下した最高法院の罪を告発するものであったのです。罪の無い人の血を流そうとしているのは、他でもない最高法院の議員たちであったからです。ですから、彼らはユダにこう答えるのです。「我々の知ったことではない。お前の問題だ」。最高法院の議員たちは、ユダの罪の告白を受けて、イエス様の裁判をやり直すようなことはしませんでした。また、ユダの罪を裁くこともしませんでした。彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」とユダを突き放したのです。ここで「お前の問題だ」と訳されている言葉を、新改訳聖書は、「自分で始末することだ」と翻訳しています(口語訳聖書は「自分で始末するがよい」)。それで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだのです。ある研究者は、ユダが銀貨を神殿に投げ込んだのは、売り主があとになって売買の撤回を申し入れて断られた場合、受け取った金を神殿にあずける習慣があったことに由来すると述べています(橋本滋男)。ユダにとってイエス様は売り物でありまして、ユダはイエス様を銀貨三十枚で祭司長たちに売ったわけです。その売買契約を撤回しようとして、銀貨三十枚を祭司長たちに返そうとしたのですが、断られたので、当時の習慣に従って受け取った金を神殿にあずけたと言うのであります。そうであれば、ユダにとってイエス様は依然として自分がどうとでもできる売り物なのであります。罪の無い人でありましても、ただの「人」でありまして、ユダはイエス様を生ける神の子、メシアとは信じていないのです。ユダは、他の弟子たちがイエス様を「主」と呼んだのに対して、「先生」「ラビ」と呼んでおりましたが、そのことは、今でも変わらないのです(26:22、25、49参照)。それゆえ、ユダは「後悔」はしても、「悔い改める」ことはしませんでした。「悔い改め」とは、方向転換すること、罪から神へと立ち帰ることであります。もし、ユダが悔い改めたのであれば、彼はイエス様のもとに行って、罪を告白したはずです。しかし、ユダは後悔して、自分のしたことを無かったことにしてもらおうと祭司長たちのもとへ行き、罪を告白したのです。そして、祭司長たちの言葉、「自分で始末をつけることだ」という言葉を受けて、ユダは首をつって死んだのであります。ユダの自殺について、カール・バルトという神学者は、次にように述べています。「彼は、以前から、自分自身の審判者であろうと欲していたのではないか。・・・・・・彼は・・・・・・神の裁き・・・・・・を、神の自由な裁きとして受け取ろうと欲せず、したがって、神の御手から待ち受けず、むしろ、彼はまた、神の裁きをも自分自身の手に取り、自ら自分に対して執行しようとするのである」(『イスカリオテのユダ』65、66頁)。ユダは首をつって死んでしまいました。そのことについて、カール・バルトは、それはユダが自分自身の審判者であろうと欲していたからだと言うのです。ユダは神の裁きに委ねることをせず、自分の手で自分自身に裁きをくだしたのです。イエス・キリストを主と告白し、自らをその僕と語る使徒パウロは、「わたしは自分で自分を裁くことすらしません。・・・・・・わたしを裁くのは主なのです」と語りました(一コリント4:3、4)。しかし、イエス様を主とせず、自分を主とするユダは、自分の手で自分自身に裁きを下したのです。
祭司長たちは、ユダが神殿に投げつけた銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言いました。これはユダの言葉、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」という言葉を受けてのものであります。祭司長たちは、ユダが投げた銀貨を、血の代金として神殿の収入にしないことにより、確かにユダが罪のない人の血を売り渡すという罪を犯したことを証明したのです。ユダばかりでなく、自分たちが罪のない人の血を流そうとしていることをも証明したのです。祭司長たちは、相談して、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにしました。ここでの「外国人の墓地」とは、「外国から来た旅人(離散のユダヤ人)のための墓地」のことであります。祭司長たちは汚れた金で「陶器職人の畑」を買い、汚れた場所とされていた墓としたのです。
8節に、「このため、この畑は今日まで『血の畑』と言われている」と記されておりますが、この血は、ユダの血でも、外国人の血でもなく、「罪のない人の血」すなわち、イエス様の血のことであります。「血の畑」と言われている一画の土地は、罪のないイエス・キリストの血が流されたことを今日まで物語っているのです。
福音書記者マタイは、このことを聖書の預言の成就であると語ります。
こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った」。
「預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」とありますけれども、ここで引用されている多くの言葉は、預言者ゼカリヤの言葉であります。ゼカリヤ書11章12節、13節にこう記されています。旧約の1491ページです。
わたしは彼らに言った。「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。」彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。主はわたしに言われた。「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。」わたしはその銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた。
ここでは、主がイスラエルの人々から銀三十シェケルという値を付けられております。銀三十シェケルは、奴隷の命の賠償金と同じ金額です(出エジプト21:32参照)。イスラエルの人々は、奴隷の命と同じ金額を、主の賃金として支払うのです。それは、主によれば、「わたしが彼らによって値を付けられた見事な金額」でありました。もちろん、これは皮肉であります。しかし、そのことが、主イエス様において文字通り実現したわけです。イエス様は最高法院の議員たちから銀三十枚の値を付けられたのです。このゼカリヤの預言には、鋳物師(貨幣を鋳造する職人)については記されていますが、陶器職人については記されていません。また、畑を購入したことも記されておりません。陶器職人について、また畑を購入したことについて記しているのは、預言者エレミヤであります。陶器職人についてはエレミヤ書の18章に、エレミヤが畑を購入したことについてはエレミヤ書の32章に記されています。福音書記者マタイは、ゼカリヤ書とエレミヤ書の預言の言葉を念頭に置きながら、それを複合預言として記し、より有名な預言者であるエレミヤの名前だけを記したのです。エレミヤ書の32章6節から9節にこう記されています。旧約の1238ページです。
さて、エレミヤは言った。「主の言葉がわたしに臨んだ。見よ、お前の伯父シャルムの子ハナムエルが、お前のところに来て、『アナトトにあるわたしの畑を買い取ってください。あなたが親族として買い取り、所有する権利があるのです』と言うであろう。」主の言葉どおり、いとこのハナムエルが獄舎にいるわたしのところに来て言った。「ベニヤミン族の所領に属する、アナトトの畑を買い取ってください。あなたに親族として相続し所有する権利がるのですから、どうか買い取ってください。」
わたしは、これが主の言葉によることを知っていた。そこで、わたしはいとこのハナムエルからアナトトにある畑を買い取り、銀十七シェケルを量って支払った。
このときエレミヤは囚われの身であり、エルサレムはカルデア人の手に落ちようとしておりました(32:25参照)。しかし、そのような状況にあって主がエレミヤにアナトトの畑を買うように命じられたのは、「この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取る時が来る」ことをお示しになるためであったのです(32:14参照)。
では、今朝の御言葉に戻りましょう。新約の56ページです。
エレミヤが買い取ったアナトトの畑はエルサレムが再び繁栄することの保証としての意味を持っていました。では、最高法院の議員たちが血の代金で買った陶器職人の畑は何を意味しているのでしょうか?陶器職人の畑は、外国人の墓地になりました。そのことは、もはやエルサレムに住む者たちには墓がないことを示しているのです。
マタイによる福音書が執筆されたのは、およそ80年頃と言われておりますから、すでにエルサレムはローマの軍隊によって滅ぼされておりました。エルサレムに住む者たちは葬られることもなく、屍を野にさらすことになるのです。そのことの保証が、祭司長たちがイエス様の血の代金で買った、血の畑であるのです。
ユダは「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言いましたけれども、最高法院の議員たちも同罪でありました。彼らはそのことを認めませんが、ユダが神殿に投げ入れた銀貨を「血の代金」と呼び、その金で陶器職人の畑を買い、外国人の墓地とすることによって、自らの罪を証明いたします。そのようにして、彼らは、自分たちが葬られることもない無残な死を遂げることの保証を得ることになるのです。