捕らえられるイエス 2016年1月03日(日曜 朝の礼拝)
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捕らえられるイエス
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- 村田寿和 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 26章47節~56節
聖書の言葉
26:47 イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。
26:48 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。
26:49 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。
26:50 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
26:51 そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。
26:52 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
26:53 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。
26:54 しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」
26:55 またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。
26:56 このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。マタイによる福音書 26章47節~56節
メッセージ
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今朝は2016年最初の礼拝であります。今年もマタイによる福音書をご一緒に読み進めて行きたいと願っております。前回(2015年12月6日)、私たちは、イエス様がゲツセマネの園で三度祈られたことを学びました。少し前のことですので、前回のおさらいから始めたいと思います。
ゲツセマネの園で、イエス様は最初、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました。イエス様は死ぬばかりに悲しまれ、うつ伏せになって、「わたしの父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈ったのです。この杯とは、イエス様が受けようとしておられる苦難の死、十字架の死のことであります。エルサレムに入るまで、イエス様は弟子たちに御自分の死と復活について三度予告してきました。20章17節から19節にはこう記されています。「イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する』」。このように言われていたイエス様が、ゲツセマネの園において、「わたしの父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られたのです。イエス様がこれから死のうとしている十字架の死は、多くの人の罪を贖う贖いの死でありました。多くの人の罪を担って、神の裁きとしての呪いの死を死ぬことをイエス様もできることなら避けたいと願われたのです。神様を「わたしの父」と呼ぶ親しい交わりに生きておられる神の御子であるからこそ、イエス様は神様から見捨てられるという十字架の死を恐れたのです。しかし、イエス様は、自分の願いを父なる神様に押しつけるようなことはされませんでした。イエス様は、続けてこう祈られます。「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。イエス様は御自分の意志が行われることよりも、父なる神様の御意志が行われるようにと祈られたのです。そして、父なる神の御心が行われることを願う祈りは、二度目の祈りでは、イエス様の中心的な願いとなります。イエス様は二度目にこう祈られました。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」。イエス様は、御自分の意志よりも父なる神様の御意志を重んじられました。もっと言えば、イエス様は、父なる神様の御意志を御自分の意志とされたのです。そのようにして、イエス様は祈りの中で従順を学ばれたのであります。言い方を変えれば、イエス様は祈りの中で父なる神様の御意志よりも自分の意志を重んじるという誘惑に打ち勝たれたのです。イエス様が三度目も同じ言葉で祈られたことは、イエス様の願いが何よりも父なる神様の御心が行われることであり、父なる神様の御心である杯を飲み干す覚悟ができたことを教えております。それゆえ、イエス様は弟子たちのところに戻って来てこう言われたのです。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちのために引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」。ここには、死ぬばかりに悲しまれるイエス様のお姿はもうありません。ここにあるのは、父なる神様の御心を行おうとされる毅然としたイエス様のお姿であります。ここまでが前回にお話したことでありますが、今朝の御言葉はこの続きであります。
イエス様がまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来ました。このユダについては、26章14節から16節にこう記されておりました。「そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた」。イエス様はこのようなユダの心を知っておられました。それで、イエス様は十二人と一緒に過越の食事をしていたとき、こう言われたのです。
「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」。さらにはこう言われました。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。このイエス様の御言葉を聞いて、ユダは白々しくも、他の弟子たちと同じように、「先生、まさかわたしのことでは」と言いました。それに対してイエス様は、「それはあなたの言ったことだ」と答えられたのです。このイエス様の御言葉を聞いて、ユダは驚いたと思います。イエス様は自分が裏切ろうとしていることを知っておられると気づいたに違いありません。この後、ユダがどうしたのかは記されておりませんが、おそらく、食事の席から立ち去って、祭司長たちのところへ行ったのでしょう。そのユダが、ゲツセマネの園にいるイエス様のところへやって来たのです。しかも、祭司長たちや民の長老たちの遣わした群衆を引きつれてやって来たのです。この大勢の群衆は、剣や棒を持っていました。彼らはイエス様を力ずくで捕まえるために、ユダと一緒にやって来たのです。
時は夜でありますから、大勢の群衆がイエス様を間違いなく捕まえることは難しいことであります。間違えて他の人を捕まえてしまうこともあり得たわけです。それで、イエス様を引き渡そうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と前もって合図を決めておりました。ユダはすぐイエス様に近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻しました。ここでもユダは、イエス様を「主」とは呼ばずに、「先生」(ラビ)と呼んでおります(26:22、25参照)。そして、「こんばんは」と挨拶したのです。ここで「こんばんは」と訳されている言葉は、元の言葉を直訳すると「喜びなさい」となります。「先生、喜んでください」。そう言って、ユダはイエス様に接吻したのです。接吻は、親しい間柄において行われる行為です。愛情の表現であります。しかし、ユダはその愛情の表現を、裏切りの合図として用いたのです。そのことを、イエス様はご存じでありました。それゆえ、イエス様はこう言われたのです。「友よ、しようとしていることをするがよい」。そして、このイエス様の言葉の後で、人々は進み寄り、イエス様に手をかけて捕らえたのです。旧約聖書にヨブ記という書物がありますが、そこで悪魔は神様の許可を受けて、ヨブに災いをもたらします。神様が許された範囲で、悪魔はヨブに災いをもたらすのです(ヨブ1:12、2:6参照)。ここも同じ書き方がされております。イエス様が、「しようとしていることをするがよい」という許可を与えられて始めて、人々は進み寄り、イエス様に手をかけて捕らえることができたのです。この時とこの場の一切を取り仕切っておられるのは、イエス様であられるのです。
しかし、そのことをよしとしない者たちがおりました。それがイエス様と一緒にいた弟子たちの一人であります。弟子たちの一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落としたのです。この人は、剣や棒をもってイエス様を捕らえに来た大勢の群衆から、剣によってイエス様を守ろうとしたのです。しかし、イエス様はこう言われます。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」。この御言葉はよく知られている有名な御言葉ではないかと思います。平和主義、戦争放棄、非武装を教えている御言葉として、文脈から切り離されて、用いられることがよくあると思います。武力は最終的な解決をもたらすことはできない。このことは考えて見れば誰にでもよく分かることだと思います。しかし、イエス様はここでそのようなことを言われているのでしょうか?ある研究者は次のようなことを述べておりました。「『剣を取る者は皆、剣で滅びる』という御言葉が弟子たちに言われていることに心を留めなければならない。すなわち、『剣を取る者は皆、剣で滅びる』という御言葉は、信仰者が迫害者に対して取るべき模範を教えているのである」と。ここで私たちが思い起こすべきは、5章38節、39節に記されていたイエス様の教えであります。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない」。弟子の一人は、剣を持ってイエス様を捕らえた群衆の一人に剣で打ちかかりました。彼は目には目を、歯には歯を、剣には剣をと考えたのです。しかし、「悪人に手向かってはならない」と教えられたイエス様は、その教えのとおりに、悪人に何の抵抗もなされずに捕らえられたのです。そして、弟子たちにも、「剣を鞘におさめなさい。剣を取る者は剣で滅びる」と警告されたのであります。
イエス様は、「こちらは少人数で、むこうは大人数だから、剣を取っても滅ぼされるだけだから、やめておけ」と言われたわけではありません。なぜなら、イエス様がお願いするなら、父なる神は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるからです。一つの軍団が6000人でありますから、12軍団以上の天使とは7万2千人の天使ということになります。それほどの天使をイエス様が願うならば、御父である万軍の主は、今すぐに遣わしてくださると言うのです。旧約聖書の列王記下19章に、夜に主の御遣いが現れ、エルサレムを包囲していたアッシリアの陣営で18万5千人を撃ったことが記されています(列王下19:15参照)。ですから、イエス様が天使たちを送ってくださいと願うならば、大勢の群衆を滅ぼすこともできたのです。しかし、イエス様はそのように願いませんでした。なぜでしょうか?それは、イエス様が自分の意志よりも父なる神様の御意志が行われることを願う者であるからです。聖書に記されている神様の御心が行われることを第一に願う者であったからです。
またそのとき、イエス様は群衆にこう言われました。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである」。イエス様は毎日、神殿の境内に座って教えておりました。もし、イエス様が何か罪を犯したのであれば、そのとき、イエス様を捕らえることができたはずです。しかし、そのようにできなかったのは、イエス様に何の罪も見いだせなかったからであります。そのイエス様を、夜に、剣や棒をもって捕らえることは本来おかしなことであるのです。そして、そのおかしなことが起こったのは、「預言者たちの書いたことが実現するためである」のです。イザヤ書53章に、不法を働かず、その口に偽りもなかった主の僕が、「罪人のひとりに数えられた」と預言されています。その預言のとおり、イエス様は罪を犯したことのない、罪のないお方であるにもかかわらず、強盗のように捕らえられ、強盗と一緒に十字架につけられるのです(27:38参照)。
「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである」。このイエス様の御言葉は、弟子たちが皆、イエス様を見捨てて逃げてしまったことにおいても当てはまります。イエス様は31節で、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ」と言われておりました。そのイエス様の御言葉どおり、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまったのです。これでイエス様は一人になられました。自分の意志よりも父なる神の御意志を重んじ、父なる神の御心を自分の心とされたのは、イエス様お一人であったのです。イエス様は必ずこうなると書かれている聖書の言葉を実現するために、ユダに裏切られ、罪人たちの手に引き渡されることをよしとされたのです。