備えてくださる神 2017年1月01日(日曜 朝の礼拝)
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備えてくださる神
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- 村田寿和 牧師
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創世記 22章1節~19節
聖書の言葉
22:1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、
22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
22:3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
22:4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、
22:5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
22:6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
22:9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
22:10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、
22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
22:15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。
22:16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、
22:17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。
22:18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
22:19 アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。創世記 22章1節~19節
メッセージ
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私たちの教会では、年ごとにテーマと聖句を定めて歩んでおります。週報の表紙にありますように、今年、2017年の年間テーマは「神の摂理を信じて生きる」、年間聖句は「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」ローマの信徒への手紙8章28節であります。この聖句からお話することも考えたのですが、昨年からローマ書を学んでおりますので、今朝は、創世記22章の御言葉から「神の摂理を信じて生きる」とは、どのようなことかを学びたいと願いました。
「摂理」という言葉は、聖書に記されていない言葉でありますが、その内容は聖書が至る所で教えていることであります。摂理とは何か?今朝は、始めにそのことを確認したいと思います。週報に、ウェストミンスター小教理問答とハイデルベルク信仰問答を抜き書きしておきました。
ウェストミンスター小教理問答「問11 神の摂理の御業とは、何ですか。答 神の摂理の御業とは、神が、最もきよく、賢く、力強く、すべての被造物とそのあらゆる動きを保ち、治めておられることです」。
ハイデルベルク信仰問答「問27 神の摂理について、あなたは何を理解していますか。答 全能かつ現実の、神の力です。それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって/今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によって/わたしたちにもたらされるのです」。
聖書の神様を信じるということは、神様がすべてのものを造り、保ち、治めておられることを信じるということであります。神様がわたしを母の胎において造られ、わたしの人生を保ち、治めてくださっていることを信じることです。わたしの人生は運命によってでもなく、偶然によってでもなく、イエス・キリストの父なる神様によって導かれていることを信じることであります。そして、そのことを信じたのが、今朝の御言葉に出て来たアブラハムであったのです。使徒パウロはローマ書の4章で、アブラハムは、信仰に生きるすべての人の父であると記しました。アブラハムは、私たちが模範とすべき信仰の父であるのです。そのアブラハムの姿から、私たちは、今朝、「神の摂理を信じて生きる」とはどのようなことかを学びたいと願います。
1節に、「これらのことの後で」とありますが、これは「アブラハムが長い間、ペリシテの国に寄留した後で」ということです(創世21:34参照)。アブラハムは息子イサクの成長を目の当たりにしながら、平穏な日々を過ごしていたことと思います。しかし、神様はそのアブラハムに次のように命じられるのです。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。神様は、約束の子であるイサクを焼き尽くす献げ物としてささげよと命じられるのです。1節に、「神はアブラハムを試された」とありますから、読者である私たちは、神様は本心からこのことを命じておられるのではないことを知っております。しかし、アブラハムはそのことを知りません。ですから、アブラハムには訳が分からなかったと思います。アブラハムについては、創世記の12章から記されております。アブラハムは、神様の召しを受けて、父の家を離れ、神様が示す地へと旅立ちました。そのアブラハムに神様は次のように約束されました。「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたの祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る」。神様はアブラハムに、「あなたを大いなる国民にする」と約束されました。このとき、アブラハムは75歳、妻のサラは65歳でしたが、子供はおりませんでした。サラは不妊の女であったのです。しかし、アブラハムは神様の約束を信じて待ち続けました。そして、アブラハムが100歳、サラが90歳のとき、約束の男の子イサクが生まれたのです。神様の約束、あなたの子孫を大いなる国民とし、祝福する。すべての氏族はあなたの子孫によって祝福に入るという約束は、イサクに受け継がれることになったのです(創世17:21、21:12参照)。しかし、神様はアブラハムに、イサクを焼き尽くす献げ物としてささげよと命じられるのです。アブラハムにとって、イサクが愛する独り子であることを知りながら、そのように命じられるのです。神様に子供をいけにえとしてささげることは、後の時代において律法によってはっきりと禁じられております(レビ18:21参照)。また、これ以前に、神様が息子をいけにえとしてささげよと命じられたことは記されていません。しかし、古代(紀元前2000年頃)の世界において、神々に息子をいけにえとしてささげる、いわゆる人身御供(ひとみごくう)が行われておりました。そして、それは神々に対する忠誠の証しであると考えられていたのです(ミカ6:6~8参照)。神様がアブラハムにイサクを焼き尽くす献げ物としてささげよと命じられた背景には、そのようなことがあるのです。神様はアブラハムに愛する独り子を焼き尽くす献げ物とすることを命じることによって、アブラハムが御自分に忠実であるかどうかを試されたのです。
次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神様の命じられる所に向かって行きました。アブラハムが朝早く、準備をして出かけたこと、私たちはここに神様の御言葉に従うアブラハムの姿を見ることができます。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えました。三日の道のりにおいて、アブラハムはいろいろなことを考えたと思います。その一つは、神様の約束はどうなるのだろうか?ということであったと思いますね。神様は契約を受け継ぐ子孫としてイサクを授けてくださいました。しかし、そのイサクを焼き尽くす献げ物とするならば、神様の約束はどうなってしまうのであろうか?自分は神様の約束を信じて、これまで歩んできた。しかし、神様はその約束を反故にするようなことを命じられるのは、どういう訳か?アブラハムには、神様が矛盾しているように思えたのではないかと思います。そのようなことをぐるぐると考えながら、三日の道のりを歩んだのではないかと思うのです。アブラハムは若者を置いて、イサクと二人だけで山に入って行くのですが、その際、「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる」と言いました。これは、心にもない取り繕いの言葉でしょうか?それとも、アブラハムの信仰の言葉でしょうか?ともかく、アブラハムは焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持って、一緒に歩いて行きました。イサクの年齢がいくつぐらいであったのかは分かりませんが、イサクは薪を背負うことのできる若者であったようです。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけました。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクはこう言いました。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」。当時は、神様を礼拝するとき、動物をいけにえとしてささげておりました。それで、イサクは疑問に思ったわけです。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」。そう尋ねるイサクに、アブラハムこう答えました。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」。新共同訳聖書は、「きっと」という言葉を記していますが、元の言葉には記されていません。「焼き尽くす献げ物の小羊は神が備えてくださる」と記されているのです。ここで、アブラハムは嘘をついているのでしょうか?「お前が焼き尽くす献げ物の小羊なんだよ」と言うこともできないので、このように答えたのでしょうか?そうではないと思います。これはアブラハムの信仰の言葉であると思います。「焼き尽くす献げ物の小羊は神が備えてくださる」。ここで「備えてくださる」と訳されている言葉の元々の意味は、「見る」という意味です。そこから、「計らう」「備える」という意味を持つようになりました。そして、この言葉から摂理という言葉が生まれたと考えられているのです。摂理をラテン語で、「プロヴィデオー」と言いますが、その意味は、「あらかじめ見る」ことを意味します。あらかじめ見る神様は、そのことを実現へと導く神様でもあるのです。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物にする小羊は神が備えてくださる」。この言葉に、私たちは、「神の摂理を信じて生きる」アブラハムの信仰を見ることができるのです。
神様が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せました。そして、アブラハムは手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしたのです。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊は神が備えてくださる」と言ったアブラハムが息子イサクを屠ろうとしたのです。私たちはこのことをどのように理解したらよいのでしょうか?その手がかりが新約聖書のヘブライ人への手紙にあります。ヘブライ人への手紙11章17節から19節までをお読みします。新約の415ページです。
信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けていた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われていました。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。
ヘブライ人への手紙は、アブラハムが神様が人を死人の中から生き返らせることもできると信じて、イサクを屠ろうとしたと記します。アブラハムは神様がイサクを死者の中から生き返らせて、御自分の約束を実現してくださると信じたと言うのです。ヘブライ人への手紙の著者は、アブラハムが復活信仰を持っていたと記すのですが、今朝、私たちが心に留めたいことは、アブラハムの復活信仰は、神様の摂理信仰に基づくものであったということであります。アブラハムは神様がイサクを死者の中から生き返らせてでも、約束を実現してくださると信じたのです。
では、今朝の御言葉に戻ります。旧約の31ページです。
アブラハムが手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしたとき、天から主の御使いが「アブラハム、アブラハム」と呼びかけました。彼が「はい」と答えると、御使いはこう言いました。「その子に手をくだすな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」。「御使い」とありますが、ここでは神様と同一視されています。神様は、「その子に手を下すな。何もしてはならない」と言われます。それは神様が本心からイサクを焼き尽くす献げ物とすることを望んではおられなかったからです。神様は、アブラハムが御自分を畏れる者であるかどうかを知ろうとして、イサクを献げるように命じられたのであります。そして、アブラハムは神様の御言葉に従って、自分の独り子である息子をささげようとしたのです。ここで明かとなったことは、アブラハムの信仰が自分の幸せのために神様を利用する御利益信仰ではないということです。アブラハムは神様の祝福のすべてとも言える自分の独り子を神様にささげることによって、自分が神様を畏れる者、神様を信じる者であることを証明したのです。アブラハムは息子イサクを屠ってはおりません。しかし、神様は、「わたしにささげることを惜しまなかった」と言われるように、イサクをささげものとして受け入れてくださったのです。そればかりか、アブラハムが言ったとおりに、焼き尽くす献げ物の雄羊を備えてくださっていたのです。アブラハムが目を凝らして見回すと、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていました。アブラハムは行って、その雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげたのです。アブラハムは、その場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けました。そこで、人々はその場所を「主の山に、備えあり(イエラエ)」と呼んだと言うのです。
主の御使いは再びアブラハムに呼びかけてこう言いました。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」。「あなたの息子、愛する独り子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさい」という神様の御言葉は、神様の約束を反故にしてしまうように思われました。しかし、その神様の御言葉に従ったとき、神様の約束はこの上ないほど確かなものとされたのです(ヘブライ6:17参照)。神様は自らにかけて誓い、アブラハムを祝福すること、アブラハムの子孫を夥しく増やすこと、そして、地上の諸国の民がアブラハムの子孫によって祝福を得ることを約束されたのです。そして、この子孫こそ、アブラハムの子孫であり、ダビデの子孫であるイエス・キリストであるのです(マタイ1:1~18、ガラテヤ3:16参照)。「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」という神様の約束は、2000年の時を経て、イエス・キリストにおいて実現したのです。そして、イエス・キリストこそ、神様が備えてくださった、「世の罪を取り除く神の小羊」であるのです(ヨハネ1:29)。14節に、「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた」とありましたが、その場所とは、「モリヤの地」であります。そして、歴代誌下の3章1節によれば、モリヤの山こそ、ソロモン王によって神殿が建てられた場所、エルサレムであるのです。神様は、モリヤの山、エルサレムに、世の罪の取り除く神の小羊、イエス・キリストを備えてくださいました。それゆえ、私たちも、「主の山に備えあり(イエラエ)」と言うことができるのです。
私たちが取り巻く状況も、「神様、なぜですか?」と問わずにはおれない状況であるかも知れません。また、そのような状況に置かれるかも知れません。しかし、そのようなときも、神様が見ておられ、計らってくださることを信じたいと願います。神様は私たちのために、愛する独り子イエスを十字架のうえで屠ってくださいました。それゆえ、私たちは神様が万事を益としてくださることを信じて、この新しい年を歩んで行きたいと願います(ヨハネ3:16、ローマ8:28,32参照)。