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2025年09月07日「神の国を受け継がない人」

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日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 6章1節~11節

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先週は、コリント教会の聖徒たちの間にあったみだらな行いについて学びました。
しかし、コリント教会は、公に表されたみだらな行いについて、愛と信仰という理由で放置してしまいました。パウロは、このような人をイエスの名によって、また主イエスの力を持って[サタンに引き渡しなさい]と言いました。すなわち、[懲戒をしなさい]と言ったのです。
なぜなら、それは彼らが悔い改め、救われるためです。これこそ、神様の愛の配慮です。パウロは、彼らの高慢が結局どのような結果に至るのかについて[パン種]のたとえを通して勧めました。主の教会が、罪に対してどのような姿勢を持たなければならないのかについて勧めたのです。
今日の御言葉は、教会の問題を世の人々に訴え出てはならないという事について勧めます。ご一緒に学びましょう。

1節を見てください。[あなたの間で、一人が仲間の者と争いを起こした時、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです]と書いてあります。[正しくない人々]というのは、6節に書いてありますように、[信仰のない人々]、つまりイエス様を信じない人たちです。コリント教会の聖徒たちがこのように不信仰者たちに訴え出ようとしました。
不信仰者たちの裁判所に行って裁判をしようとしたのです。[信仰のない人々]とは、神様の法とは関係なく生きる人々です。また、彼らはイエスキリストによって義とされていない人々です。
不信仰者です。パウロは、聖徒の間に起こった争いをどうしてこのような人々に訴え出ようとするのかと叱責しているのです。なぜ、パウロがこのように叱責したのでしょうか。[信仰のない人々]は、神様の御国の観点からではなく、この世の観点から判断する人々だからです。しかし、コリント教会の聖徒たちが正しい人々、すなわち、神様を信じる人々に訴え出るのではなく、不信仰者たちに行って訴え出たのです。
その当時、ユダヤ人も訴え出る時、異邦人に訴え出てはならなかったそうです。これは、神様の民がしてはならないことだという事です。聖徒らが、自分たちの争いを世の法廷に持って行くならば、一つである教会は崩れてしまいます。これは、主の恵みを受けた神様の民の心ではありません。

2節を見てください。パウロはこのように言います。[あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたはささいな事件すら裁く力がないのですか] これは、コリント教会の聖徒たちが神様の民として持っていた特権を忘れてしまった行動だという意味です。
この御言葉は、終末的な観点を持って言ったのです。主が再び来られた時、聖徒らは主と共に審判に参加するという意味です。マタイによる福音書19章28節にこうあります。[イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座る時、あなたがたも、私に従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる] 韓国語と英語の聖書とギリシャ語は「イスラエルの十二部族を治めることになる]というところを「イスラエルの十二部族を審判することになる]と書いてあります。
とにかく、その時、主と共に審判をしなければならない人々が、不信仰者たちに訴え出ようとするのかとパウロは言ったのです。
世の人々は、自分の利益のためには命をかけるほどに戦います。私たちクリスチャンは、そのような戦いをしてはならない人たちです。また、そのような問題に対して正しく判断しなければなりません。
しかし、コリント教会の聖徒たちは、ささいな事件すら裁く力がないので、不信仰者たちに訴え出ようとしたのです。
このようなことは恥ずかしいことです。コリント教会の聖徒たちは、知恵があり、多くの賜物があり、霊的に豊かである。また素晴らしい指導者に従っているといつも誇っていました。にもかかわらず、このささいな事件すら裁く力がありませんでした。
この教会が本当に霊的で知恵がある教会でしょうか。5節の最後の部分を見ますと、[知恵のある者が一人もいないのですか]とパウロは言います。

また、3節でパウロはこのように言います。[私たちが天使たちさえ裁く者だということを知らないのですか] 聖書を見ますと、最後の審判の時、天使たちも審判を受けると書いてあります。
ペトロの手紙2章4節、ユダの手紙6節を参考してください。このような審判を行う時、聖徒たちも一緒に参加するという意味です。
3節の後半部分をご覧ください。[まして、日常の生活にかかわることは言うまではありません]と言います。4節を見てください。[それなのに、あなたがたは日常の生活にかかわる争いが起こると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか] 「疎んじられている人たち」について二つの見解があります。
一つ目は、軽んじられている人、すなわち、無視され、疎外されている人たちだという見解です。
二つ目は、異邦人の裁判官としてみる見解です。とにかくこれらの人たちを尊敬するなという意味ではなく、彼らの生き方には神様の知恵がないという事を指摘しているそうです。
文脈を見ますと、不信仰者たちのことを言っているそうです。教会の聖徒たちの争いのため不信仰者たちを裁判官として立てることはだめだという意味だそうです。パウロがこのように言ったのは、5節の最初の部分を見ますと、コリント教会の聖徒たちを恥じ入らせるためだと書いてあります。続けてパウロは、[あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか]と叱責します。何度も申しましたが、コリント教会の聖徒たちは、知恵に対していつも誇りました。しかし、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいなかったのです。

今の時代の教会も教会の中で争いが起こる時、世の法廷で訴え出ようとする時があります。互いに戦いながら神様に栄光を捧げようとしています。神様がこのような姿を見られ、どのように思われるでしょうか。
教会の問題は、主の教会の中で、神様の御心を正しく悟り、解決しなければなりません。
これこそ神様が願っておられることです。争いの根本は、もっと所有したいという思いからの貪欲です。このことを私たちは考えなければなりません。

6節を見てください。
パウロは続けて言います。[兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で] 兄弟が兄弟を訴えるのもあまりよくないですが、しかも信仰のない人々の前で訴え出ているのです。それにもかかわらず、コリント教会の聖徒たちは、知恵があると誇っています。パウロは、このような行動こそ、知恵がない行動だと指摘をしています。

7節を見てください。
[あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、すでにあなたがたの負けです]と書いてあります。
この御言葉の意味は、兄弟の間で誰が勝ったとしても神様の御前ではすでに皆が負けたという事です。7節真ん中から見ますと、本当の勝ち、勝利とは[むしろ、不義を甘んじて受け入れ、むしろ、奪われるままでいる]ということです。
しかし、8節を見ますと、パウロは[あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている]と言います。コリント教会の聖徒たちは、信仰のない人々の前に訴え出て、兄弟同士の愛を失ってしまいました。
聖徒の皆様。
聖徒たちが信仰のない人々の前に行って裁判をする時、どちらが勝ったとしても結局、傷つくのは教会です。このような裁判は、一つの体である主の教会に大きな傷を負わせるのです。主の体である教会を本当に愛するならば、また本当に信仰の兄弟姉妹を愛するならば、このような裁判をしてはなりません。
ステファノは石を投げつけられ殉教をしました。
パウロはイエス様を信じる前には、キリスト人に石を投げつける人でした。誰が本当の勝利者でしょうか。
石を投げつけた人ではなく、石を投げつけられた人です。イエス様を信じてからパウロも主のために石を投げつけられる人となりました。
イエスキリストの十字架の恵みを受けた人として、十字架を背負い歩む人こそ本当に勝利する人となります。すなわち、勝利する人は世の方法ですべてを解決しようとする人ではありません。最後まで神様の御言葉に従い生きる人こそ、勝利する人であります。
キリスト人は、不義を甘んじて受けても神様の御言葉に従う人であり、奪われても神様の御前で忠実に生きる人です。
7と8節に[不義]という単語が出ますが、[不義]というのは何でしょうか。コリント教会の聖徒たちは、互いに愛することなく、むしろ、互いに戦い、侮辱し、だまして奪い合いました。さらに、これに対して繰り返し報復したことが分かります。注釈によりますと、このような悪行を常習的に行ったそうです。このような不義を行う人はどうなるのでしょうか。

9、10節を見ますと、[神の国を受け継ぐことができない]と書いてあります。すなわち、天の民だと呼ぶことができません。このような不義を行うことは、神様の御国では赦すことができないのです。イエス様を心から信じ、従うならば、この不義を行ってはなりません。特に神様の御国の民であれば、このような人生を生きてはなりません。
しかし、今日の箇所、11節に[あなたがたの中にはそのような者もいました]と書いてあります。
本当のキリスト人は、主の恵みによって罪が赦され、義とされました。すなわち、神様の聖なる民となりました。ですので、本当のキリスト人は、不義を行い、生きることはできません。
パウロは、信仰のない人々の前に行って裁判を受けることが神様の民として正しいことなのか、また、主の恵みによって義とされた人が不義を行うことができるのかという事を深く考えなさいと言っています。
信仰のない人々の前に訴え出ることは、神様の御前で正しい事ではなく、不義なことだという事を教えます。

聖徒の皆様。
私たちが本当に神様の民であるならば、忠実なキリスト人であるなら、その姿が生活を通して表われなければなりません。
キリストの恵みと聖霊の働きによって義とされた私たちは、不義な行いを許してはなりません。不義な行いを行う人は、本当のキリスト人だとは言えません。神様の御国を受け継ぐことができません。
神様の御国を受け継ぐことができる人は、主の恵みと聖霊の働きによって義とされた人です。このような人は、不義と共に生きることはできません。真理と共に生きるのです。私たちが神様の御国を受け継ぐ人であるならば、この世の利益を得ようとして、信仰の兄弟姉妹と戦うような事はせず、また不義を行わず、忠実に神様に従わなければなりません。神様の御国を受け継ぐ人生を生きるように、またその祝福を期待し、喜んで生きましょう。

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