主を誇りなさい
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- 千禎鎬 牧師
- 聖書 コリントの信徒への手紙一 1章18節~31節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 1章18節~31節
先週、私たちはコリント教会の間にあった争いについて学びました。コリント教会の争いは、それぞれの聖徒たちが追求する信仰のロール·モデルが違ったから起こったのです。すなわち、自分たちが従おうとする指導者や、また思いと考えも違い、それぞれに主張が強すぎて互いに認めることも尊重することもできなくなり、争いが起こるようになったのです。結局、これによってキリストの体であるコリント教会は、四つの分派に分けられ悲しいことが起こりました。パウロ派、アポロ派、ケファ派、キリスト派に分けられてしまいました。残念ながら今も同じようなことが起こっているのが現実です。牧師派、長老派、執事派など。キリストの体である教会の間に争いがあって分裂している教会があります。争いの本当の理由、原因は何でしょうか。
今日読みました御言葉は、コリント教会の間にあったその争いの原因が何だったのかについて教えます。結論から言いますと、コリント教会の争いの本質的な理由、原因とは、十字架の福音についてはっきり悟らなかったからです。
もう一度18節を見てください。このように書いてあります。[十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です]と書いてあります。同じような御言葉が24節にも書いてあります。違う御言葉のように見えますが、この二つの御言葉は、同じ意味です。主に召された私たち、主によって救われたキリスト人には、十字架の御言葉こそ、神様の力であり、神様の知恵であります。しかし、この十字架の言葉は、当時のユダヤ人とギリシア人にはそうではありませんでした。ユダヤ人にとって十字架の言葉は、何の力もないように見えました。また、ギリシア人にとっては、彼らが追求する知恵ではなかったのです。
22-23節を見てください。パウロは、十字架の言葉をユダヤ人とギリシア人が追求することと比べながら説明します。[ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを延べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、]とパウロは言います。
[十字架の言葉]というのは、何でしょうか。神様の御子、主イエス・キリストが私たち人間の罪を解決し、罪と永遠の死から救うために十字架につけられたという言葉です。しかし、印を求めるユダヤ人にとっては、その十字架の言葉は、憚り物、邪魔になる物でした。一方、知恵が最高だと思うギリシア人にとっては、十字架の言葉は、本当に愚かなものと見えたのです。
当時ユダヤ人たちは、何かの印が表されることを力だと思っていました。ユダヤ人たちがイエス様を預言者だと言い、イエス様に従った理由は、イエス様が人間の力ではできない驚くべきことや奇跡をなさったからです。さらに、死んだラザロを生き返らせたイエス様の御業を見たユダヤ人たちは、イエス様こそ、自分たちをローマから救うために来られたメシアだと確信を持つようになったのです。それで、子ロバに乗ってエルサレムに入られるイエス様に向かって[ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ]と叫びました。しかし、そのような期待をしていたイエス様が十字架につけられ、死刑されるようになった時、彼らは絶望し、むしろ、自分たちが歓迎したイエス様を[殺せ、殺せ]と叫ぶ怒った群衆になってしまったのです。なぜでしょうか。自分たちを救うメシアだと思った人が、何の力もなく、そのまま死んでしまったからです。ですので、ユダヤ人たちは十字架につけられたイエス様を信じてくださいと叫ぶキリスト人を見るとどのように思ったのでしょうか。[狂った人たち、狂人、愚かなものたち]など。このように思ったでしょう。
一方、ギリシア人は、当時、哲学的な思考を最高だと思いました。ギリシア哲学は、西洋の哲学史でとても重要な位置を占めています。ソクラテス、アリストテレス、プラトンなど。このような哲学者たちをよくご存じだと思います。そのような哲学者たちが高く上げられる社会がギリシア社会でした。彼らは、理性的で、論理的な思考をとても大事に思っていました。世の知識がたくさんある人たちを尊敬した社会でした。このような人たちが、神様の御子が人となりこの世に来られ、十字架につけられ死んでしまったこと、さらにそのことによって人が救われるという話を納得するはずがないでしょう。神様の御子、すなわち、神が何の力もなく、そのまま人間によって死んでしまったということを彼らは、理解できません。神様の御子を信じない人たちは、そのように思うことが当然かもしれません。しかし、問題は、イエス様を信じ、救われた人たち、すなわち、コリント教会の聖徒の中でもこの十字架の言葉を悟らず、正しく信じていない人たちがいたということです。
今日の御言葉は、単純に十字架の御言葉をユダヤ人とギリシアがどのように受け入れるのかについての話だけではありません。パウロが伝えたかったのは、31節に書いてあります。ご一緒に読みましょうか。[誇る者は主を誇れと書いてある通りになるためです] どいう意味でしょうか。
コリント教会の聖徒たちがキリスト人として本当に誇らなければならない十字架の言葉を誇ることではなく、ユダヤ人とギリシア人が誇っていたことと同じようなことを誇っていたという意味です。ユダヤ人のようにある力が表されることを誇ったり、ギリシア人のように他人より多くの知識を誇ったりしたコリント教会の聖徒たちを叱責したのです。
コリント教会の中にいたユダヤ人のキリスト人たちは、神様から選ばれた選民意識など。自分たちの優越性と、与えられた賜物を誇ったでしょう。まるで、それらが自分たちの大きな力と知恵だと誇ったでしょう。そのように思ったユダヤ人のキリスト人にとっては、十字架の言葉が負担となり、正しく悟らず、受け入れませんでした。
十字架の言葉は、すなわち十字架の福音は、私たちに救いを与えることだけではなく、私たちに献身と仕えを教えます。自分を表わすことより、自分を低くし、他人に仕えることを教えます。それが、十字架につけられたイエス様に従う人生だと教えます。しかし、ユダヤ人たちはそのことを受け入れることができませんでした。自分たちの目の前に表される力、すなわち、驚くべきことや多くの奇跡だけが本当の主の力と知恵だと思ったからです。しかし、十字架の言葉はそれと正反対に教えているので、それを簡単に受け入れることができなかったのです。
ギリシア人のキリスト人は、どうでしたでしょうか。彼らは、何の抵抗もなく、何の力もないまま十字架の上で死なれたことこそ、愚かなことで、そのイエス様の教えに従うことが愚かなことのように見えたかもしれません。むしろ、多くの聖書の知識を持って論争しながら、自分の存在を表わすそのような人がもっとイエス様を正しく信じる人になると思ったかもしれません。
パウロは、今日の御言葉を通して十字架の言葉について正しく悟っていないコリント教会の聖徒たちに向かってこのように教えました。27-29節を見てください。
[ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見さげられている者を選ばれたのです。それは、誰一人、神の前で誇ることがないようにするためです] どのような意味でしょうか。
私たちが誇ることは、世の知恵や力、また世の地位など。世のものではないという意味です。これらを誇ってはならないということです。
それでは、主によって救われ、キリスト人になった私たちは何を誇ったら良いのでしょうか。30-31節をご一緒に読みましょうか。
[神によってあなたがたはキリスト·イエスに結ばれ、このキリストは、私たちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。誇る者は主を誇れと書いてあるとおりになるためです] この御言葉の意味は、私たちキリスト人に、知恵と義と聖と贖いとなられたイエス様だけを誇り、世のものを誇ってならないという御言葉です。神様の力であり、知恵となる主イエス・キリストの十字架を誇らなければならないということです。しかし、コリント教会の聖徒たちは、何を誇ったのでしょうか。指導者パウロの指導力を誇り、アポロの豊かな知識と雄弁を誇りました。また、ペトロがどれほど律法を守り、努力したのかを誇り、イエス様の一番目の弟子だったということを誇りました。さらに、ある人は、自分は直接にイエス様と交わりをし、イエス様と関係していると誇りました。このようにそれぞれの自分たちの誇りによって頭である主イエス・キリストの教会は、四つに分けられてしまいました。結局、一つの体である教会が四つに分けられた理由は、十字架の言葉を正しく悟らず、その言葉に従わなかったからです。パウロは、このようなコリント教会の聖徒たちの姿を指摘し、勧めているのです。
聖徒の皆様。
教会の本質を回復するために必要なものは何でしょうか。財政、それともそれぞれの賜物がある聖徒の人数でしょうか。主の福音をしっかり伝える雄弁力でしょうか。これらも大切です。しかし、これらより、大切なのは、十字架の言葉を正しく悟り、またその十字架の言葉に従うことです。イエス様の十字架の言葉は、神様の愛と主イエス・キリストの恵みと犠牲、また献身と仕えを私たちに教えます。ですので、主イエス・キリストによって救われた私たちは、何を誇ったら良いのでしょうか。
私たちが誇りたいもの、誇りたいことがあります。しかし、頭である主イエス・キリストの教会である私たちは、主イエス・キリストの十字架の愛と恵み、また、十字架の言葉を誇らなければなりません。この本質を失い、世のもの、また世のことだけを誇るならば、主の体であり、教会である私たちは深刻な病気にかかるしかありません。十字架の言葉を誇るということは、私たちが十字架の恵みを受けたということを覚えることです。また、その恵みにふさわしく生きようとする姿です。さらに、その十字架の言葉、恵みを伝えることです。私たちの全てを通して十字架の救い主主イエスキリストを崇め、たたえる人生を生きることです。もちろん、弱い私たちは完璧にそのように生きることができません。しかし、そのように生きようと最善を尽くし、十字架の言葉、十字架の主を誇るべきです。
誇る者は主を誇れという御言葉を覚え、主イエス・キリストを誇る人生を生きましょう。お祈りを致します。
十字架につけられ、私たちに救いの喜びを与えてくださった主イエス・キリストの父なる神様、今日もあなたの尊い御言葉を与え、聞かせてくださり感謝いたします。神様の限りない愛と主の恵みを与えられた私たちは、この世の何より主を誇らなければならない存在です。それにもかかわらず、主を誇ることなく、世のもの、また世のことを誇ることが多くありました。赦してください。また、救いを与えられ、キリスト人になった人として主を誇る人生を生きる力と知恵、また信仰を強めてください。さらに、私たちが誇る主を大胆に伝えるように用いてください。善通寺教会の聖徒の皆様が、主を誇る人生を生きるように、またその人生の上にあなたの祝福を注いでください。
弱さを覚えている方、悩みで苦しんでいる方を憐れんでください。あなたの平安と慰め、また癒しの恵みとすべてを乗り越えることができる力を与えてください。何より、救われた人として救い主主イエス・キリストを誇る人生を生きる幸いを与えてください。求道者の方が、主を誇る人生を生きるように信仰を与え、救いの喜びを与えてください。教会から離れている方がいらっしゃいます。力と知恵となられる主の元に帰り、主を誇る幸いな人生を生きるように、またあなたの栄光を表わす信仰を強めてください。礼拝参加が難しくなっている方の上にもあなたの慰めと励ましを与えてください。どこにいても信仰を失わず、主を誇る歩み歩むことができるように。また一日も早く礼拝参加ができる恵みを与えてください。新しい今週も置かれている環境の中で主を誇り、あなたの祝福中で生きる歩みを歩ませてください。すべてのことを主にゆだね主イエスキリストの御名によってお祈りを致します。