霊に満たされ
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- 説教
- 千禎鎬 牧師
- 聖書 エフェソの信徒への手紙 5章15節~20節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
エフェソの信徒への手紙 5章15節~20節
イエス様は、この世におられる時、ご自分が世から離れることを先に弟子たちに言われ、聖霊を送ってくださると約束されました。このことは、イエス様が死なれてから三日目に復活され、天に上げられた時成しとげられました。イエス様が約束されてから50日が経つと聖霊を送ってくださいました。イエス様の約束が成就されたのです。イエス様が約束された聖霊は教会に降り、また聖書が教えてくださったように主を信じる人々といつも共におられます。ですので、キリストの霊がなければ、キリストの人ではないと言われます。イエス様を信じる私たちには、すでに聖霊が共におられるということを忘れないでください。今日の御言葉を通して聖霊充満のキリスト人の生活について学びましょう。
今日の御言葉を見ますと、聖霊充満にならなければならない理由について教えます。それは、[今は悪い時代]だからです。この悪い時代に時を無駄にしてはなりません。放蕩の生活と淫乱と貪欲、また無分別な者のように暗闇の中に生きてはならないからです。主の光の子どもは、暗闇の中に生きている不従順な子どものように生きてはなりません。今日の御言葉は、不従順な子どもたちの放蕩な生活を酒に酔いしれることと表現しています。酒に酔いしれたように今の時がどのような時なのかを分からずに生きてはならないということです。今の時代は、悪い時代なので、酒に酔いしれて分別できない時を過ごすことではなく、時をよく用いなさいと教えているのです。
この放蕩で、悪い時代に聖徒たちに一番必要なことが[霊に満たされ]と宣言した理由がこれです。
[酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊にみたされ] なぜ、酒と霊を比較したのでしょうか。酒と霊に比較されたのは、10節の御言葉から類推することができます。[何が主に喜ばれるかを吟味しなさい] ここで大切な言葉は、[喜ばれる]ということです。主に喜ばれなければなりませんが、以前、暗闇にいた人たちは自分自身を喜ばせました。しかし、キリストによって光の子どもとなった私たちは自分自身ではなく、主に喜ばれる道を歩まなければならないということです。
酒を飲んで、酒に酔いしれる理由は、自分を喜ばせるためです。このように酒を通して例を挙げたのは、酒がその当時、人々が一般的に飲む飲料と同じような物だったからです。この観点から見ますと、霊に満たされることも酒を飲むことのように普遍的なことです。実際にキリスト人であれば、キリストの霊である聖霊が共におられます。ローマ8章9節に[キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません]と書いてあります。主に喜ばれる生活をするためには、肉体の考えではできません。むしろ、肉の思いに従う者は、神様に敵対する人です。ですので、酒は人が作ったものとして人を喜ばせる肉のことの代表と言えます。一方、聖霊は人が作ったのではなく、キリストの霊なので神様に属していて神様に喜ばれることができるのです。
酒に酔うとだいたい歌を歌います。しかし、その歌は霊的な歌ではありません。すなわち、主なる神様に歌って賛美することではありません。19節と反対です。また、酒に酔いしれて歌う歌は、神様に感謝もせず、高慢な自分の誇りを話し続けます。言葉は多いですが、自分の話と他人に対する不平不満が多いです。これは、聖霊に満たされた光の子の姿ではありません。また、酒に酔いしれている人は、主である神様の御心が何なのかと理解もできず、分別力や理性が麻痺してします。この姿も15-16節の御言葉と対照されます。ですので、酒に喜ばれることと聖霊に満たされることは完全に比較されます。酒と聖霊は、肉と神様を比喩します。酒は人が作るもので、それによって人は喜びを得ます。しかし、聖霊は人から生まれたのではなく、父なる神様がイエスキリストを通して送ってくださったキリストの霊であり、三位一体の神様です。
今の時代の多くのキリスト人は、悪い時代の中で、何より聖霊に満たされ、何が主に喜ばれるかを吟味しなければなりません。しかし、人を喜ばせることに関心を持ちます。自分が喜んでいるから主である神様も喜ばれるのではありません。
私たちは何が主に喜ばれるのかを吟味しなければなりません。酒に酔いしれて自分を喜ばせることではなく、聖霊に満たされ主に喜ばれる人生を生きなければなりません。
このように聖霊に満たされた人は、15節に書いてありますように愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩んでいきます。聖霊に満たされた人は、分別力がない非理性的な人ではありません。もちろん、世の人々が見る時、非理性的な人のように見える時もあるでしょう。しかし、聖霊に満たされた人は、世の人々が判断するそのような人ではありません。先ほども言いましたが、酒に酔いしれている人は、正しく、また理性的に判断することができません。しかし、聖霊に満たされた人は、自分自身を下ろし、自分の欲と貪欲、また淫乱と淫行など。罪から離れ、主に喜ばれる人生を生きようと方向を変えます。知恵ある人の人生を生きます。時が悪いかどうかを悟らず、また自分に何が起こるかを知らず、酒に酔いしれてどうしようもないことを行うのではなく、聖霊に満たされた人は、細かく気を配って歩んでいきます。
主の御心が何か、また主である神様が喜ばれることが何かを悟り、そのように生きようとすれば、キリストの霊である聖霊に満たされなければなりません。
聖霊に満たされたということはどういうことでしょうか。酒に酔いしれていることから理解することができます。酒を飲んで酔うとその人を支配するのは酒です。酒が体をコントロールできないようにし、心も考えも正しく判断できないようにします。さらに自分も知らず知らずのうちに過ちを犯し、時には大きな事故や事件を起こします。それで大きな混乱に陥ります。韓国にはこのようなことわざがあります。[人が酒を飲むと次は酒が酒を飲む。また次は酒が人を飲む] どのような意味でしょうか。酒を飲みすぎると人間は判断や行動がなにもできず、酒が人間を支配するという意味です。聖霊に満たされるということは聖霊の支配を受けることです。聖霊の統治を受けること、聖霊に導かれることです。もちろん、これらの事は酒に酔いしれていることとは全く違い、正しく、また神様が喜ばれる人生を生きるように助け導いてくださいます。
聖霊に満たされた人は、15節、19節、20節の人生を生きる人です。愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩み、主に喜ばれる人生を生きようとします。また、神様との関係を悟り、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌います。さらに、いつも、あらゆることについて主イエス・キリストの名により、父である神様に感謝し、キリストに対する畏れを持って、互いに仕え合います。もちろん、聖霊は私たちに平安を与え、御言葉を悟るようにし、悔い改めをするようにします。また信仰を強められ、信仰によって生きる力を与えてくださいます。
聖霊に満たされた光の子どもたち、主に喜ばれる人生を生きようとする人は、日常生活の中でそれが表されます。その例をエフェソの信徒への手紙5章22-6章9に説明しています。家庭で妻と夫の関係、子どもと親との関係,また職場で部下と上司の関係の中でどのように生きなければならないのかについて説明しています。一言で言いますと、キリストに対する畏れを持って、互いに仕え合いなさいということです。夫も妻に、妻も夫に、親も子供に、子どもも親に、また職場の上司も部下に、部下も上司にキリストに対する畏れを持って互いに仕え合うことです。愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩むことです。家庭で夫と妻の関係は、キリストと教会の関係として互いに愛し合い、仕え合わなければなりません。また親は子供に主の御言葉と教えを通して育て、子どもを怒らせてはなりません。子どもも親に従い、敬わなければなりません。職場でも上司や部下が、キリストに従うように互いに喜んで仕えなければなりません。
このように聖霊に満たされるならば、神様が教えてくださった教えによって、家庭の回復と職場での回復、それぞれの共同体が回復されるのです。すなわち、神様が最初に立ててくださった方法によって行われます。世の方式と世の考え、また世の流れに従うのではなく、キリストに対する畏れを持って、互いに仕え合うことこと、神様が立てられた色々な制度の本来の意味です。神様が本来立てられたその原理と原則に従って行うことが聖霊に満たされる人生であります。聖霊に満たされるということは、一時的な興奮状態の感情ではなく、光の子どもの生活の中で、聖霊に従って生きることです。
ですので、聖霊に満たされた人は、すべての社会制度に対して、神様が立てられた本来の法則、原理を理解し、それに従い、神様に喜ばれる人生を生きる人です。政治、経済、教育、法律など。どのような職場で働いても、すべてが神様がその制度を建てられた本来の法則に従い、キリストに対する畏れを持って、互いに仕え合います。
聖徒の皆様。
聖霊に満たされた人生は、いつも真剣に、賢い者として、細かく気を配って歩み、正しく分別しながら、主の御心がなんであるかを悟る知識ではなく知恵ある人です。また感謝の生活をし、主に向かって心から賛美を捧げ、キリストに対する畏れを持って、互いに仕え合います。
私たちは、すでに主イエス・キリストの恵みによって、暗闇から救い出され、光の子どもとなりました。光の子どもとして聖霊に満たされ、いつも主に喜ばれることを悟り、聖霊の実を結びながら感謝と喜びあふれる人生となりますように願います。お祈りを致します。
私たちのために聖霊を送ってくださった主イエス・キリストの父なる神様。今日も尊い御言葉を与え、聞かせてくださり、感謝いたします。復活され、天に昇られた主イエス・キリストは、私たちを一人で置かず、キリストの霊である聖霊を送ってくださり、私たちと共にいてくださいます。しかし、私たち人間は、聖霊に従わず、自分の考えや思い、また自分の力によって生きようとします。まるで、愚かな者のように歩んでいる時があります。赦してください。再び主が送ってくださった聖霊と共に歩み、聖霊に満たされるように導いてください。ここに集まっているお一人お一人が聖霊に満たされ、いつも真剣に、賢い者として、細かく気を配って歩み、正しく分別しながら、主の御心がなんであるかを悟り、知識ではなく知恵ある人として生きるようにしてください。また感謝の生活をし、主に向かって心から賛美を捧げ、キリストに対する畏れを持って、互いに仕え合うことができるように導いてください。
心の弱さを覚えている方、悩んでいる方、また困難な状況の中で生活している方が、聖霊の平安と慰めが与えられ、また聖霊の力によって生きるように助けてください。何より聖霊に満たされ、すべてを乗り越え、光の子どもとならせてくださった主に喜ばれる人生を生きるように共に歩んでください。求道者の方が、聖霊の力に導かれ、聖霊に満たされる光の子どもの歩みを歩ませてください。教会から離れている方が再び主の元に帰り、聖霊に満たされ、聖霊に導かれる祝福された人生を生きるように憐れみを与え、導いてください。礼拝参加が難しくなっている兄弟姉妹の上にも暖かい聖霊が注がられ、慰めと励ましを与え、どこにいても聖霊と共に生き、聖霊の力によって生きるように、また共に礼拝を捧げる幸せな時を与えてください。新しい今週もキリストの霊、聖霊に満たされ、聖霊を送ってくださった主に喜ばれる道を歩ませてください。すべてのことを主にゆだね主イエスキリストのみ名によってお祈りを致します。