神は真実な方です
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- 千禎鎬 牧師
- 聖書 コリントの信徒への手紙一 1章1節~9節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 1章1節~9節
ヨシュア記を終え、今日からコリントの信徒への手紙一を一緒に学びます。コリントの信徒への手紙一を通して私たちに教えてくれる神様の深い御心と神様の愛、また神様の恵みを悟るように願います。
パウロは、エフェソでコリントの聖徒たちに手紙を書いています。コリント教会は、紛争や神様から与えられたたまものを自慢するという問題がありました。また不道徳な生活など。多くの問題がありました。しかし、パウロは多くの問題を孕(はら)んだコリント教会に手紙を書きながら、まず彼らを叱るのではなく、感謝の心を表わしています。コリントの信徒への手紙一を読むと、パウロのコリント教会に向けた愛と熱情が分かります。今日から一緒に学びましょう。
少しコリントの信徒への手紙一の背景について説明いたします。
コリント教会は、パウロが第二次伝道旅行の時、およそ一年6か月間留まり、建てた教会でした。当時、コリントはローマ帝国に属している属州の中で[アカイア]という行政区域の首都で、その地域の総督の居住地でした。パウロの時代のコリントは、アテネより大きいローマ帝国の中で四番目に大きな都市でした。
ギリシアの中心地として、当時の人口がおよそ60万人となる商業の中心的な都市だったそうです。それで、外部文化に対して開放的な都市でした。そのせいで、コリント地域は道徳的に、また性的にとても堕落した問題に直面していました。
コリントの信徒への手紙一を書く時は、パウロが第三次伝道旅行をしていた時で、エフェソ地域の働きを終えようとする時でした。そこで、パウロは色々な経路を通してコリント教会の状況について聞いたのです。様々な深刻な問題が起こっているということでした。コリント教会の聖徒たちは、多くの知識を持っていました。また霊的な賜物も豊かな教会でした。それにもかかわらず、子どものように未熟で、敬虔ではない教会でした。このようなコリント教会の問題を正しく直すためにパウロは、手紙を書いたのです。
今日の箇所、手紙の書き出しを見ますと、パウロは自分を[神の御心によって召されてキリスト·イエスの使徒となったパウロ]と紹介します。当時、コリント教会の中には、色々な分派があり、パウロの使徒権を否定する人がいました。それで、パウロはまず、自分の使徒権は、神様の御心によって与えられたということをはっきり言っています。[使徒]という意味は、「送られた人」という意味です。パウロは、過去にキリスト人を逮捕し、迫害することに先頭に立った人でした。しかし、彼はダマスコに近づいた時、復活されたイエス様に出会い、完全に回心し、使徒として使命を与えられました。
パウロは、このような自分自身を紹介する事、すなわち、使徒となったことを自慢しようとする意図はありませんでした。それは、自分が使徒として召されたことはもちろん、手紙を通して伝える主の御言葉を疑うことも毀損することもなく、主の御言葉の教訓をはっきりと守ることを強調するためでした。
2節を見ますと、パウロは手紙の受信者を「コリントにある神の教会へ」と書きながら彼らに手紙を書いていると言います。「コリント」という地名と並(なら)んで「神の教会」と言及したのは、重要な意味があります。偶像崇拝の代表的な場所である「コリント」と神様のお選びによって呼ばれた聖なる神様の民、すなわち、聖徒の集まりである「神の教会」という表現をして、堕落した世の都市の中に神様の教会があるということを強調したのです。さらに、キリスト人は堕落した世の中でも信仰を守り、福音を通して世を変える使命があるということを表わした表現です。
パウロによりますと、コリント教会はキリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、聖徒と呼ばれる人々の共同体でした。パウロは、コリント教会の聖徒たちを「聖なる者とされた」と言いました。受動態、受け身の表現です。この意味は、コリント教会の聖徒たちが彼らの努力や行いによって聖なる者となったということではなく、主イエス・キリストの恵みによって聖なる者とされたということです。すなわち、自分の行いではなく、神様のお選びによって、神様のお呼びによって聖なる者とされ、聖徒となったという意味です。コリント教会の聖徒たちに対してパウロのこのような表現は、まだ未熟な信仰や道徳的な堕落、また色々な問題がありましたが、彼らも神様の民、神様によって選ばれた聖徒だということを悟るように、また同時に聖徒としてふさわしい人生を生きることを強調した表現です。
4-7節を見ますと、コリント教会の聖徒たちの肯定的な側面に対してパウロの感謝が記されています。コリント教会の聖徒たちを叱責し、色々な勧めをするために手紙を書きましたが、パウロは、彼らに称賛と励ましを惜しまなく記したのです。彼らの肯定的なことを表わし、感謝しながら彼らに対する自分の信頼と愛を見せて、彼らが落胆しないように配慮したのです。
8節を見てください。パウロはコリント教会の聖徒たちに[主も最後まであなたがたをしっかり支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます]と言っています。この御言葉は、当時のコリント教会の倫理的で霊的な状況を考えますと、本当に大胆な宣言です。なぜなら、コリント教会はすでに多くの問題によって紛争が起こり、教会が深刻な状態に陥ってしまっていたからです。さらに、コリント教会があるそのコリントという都市自体がすでに堕落と腐敗された都市だったからです。それにもかかわらず、パウロがこのように宣言したのは、9節に理由が書いてあります。[神は真実なお方]だからです。[神は真実なお方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです]
パウロは、堕落した都市で、堕落した文化の中で生きていたコリント教会の聖徒たちをお呼びになり、ご自分の子、主イエス・キリストとの交わりに招き入れられた神様の真実さを賛美いています。パウロの賛美と宣言は、今のコリント教会の状態を見てからしたことではありません。彼がこのように大胆に宣言し、賛美をすることができたのは、彼らを聖なる者、また聖徒とならせてくださった真実な神様を見つめたからです。
コリントは、貿易と商業の中心地だったので、多くの富と贅沢を享受し、自分の快楽のために無駄使いをしやすい環境でした。さらに、偶像を崇拝する神殿が多くあり、性的な堕落と放蕩の生活が溢れていたところでした。このようなところでコリントの教会の聖徒たちは神様に呼ばれ、主を信じていた人たちでした。過去には、彼らの中にも一般のコリントの地域の人々と同じような生活していた人もいたでしょう。しかし、神様はそのような人も捨てることなく呼んでくださり、主イエス・キリストを通して救いの喜びを与えてくださいました。彼らに救いを与えられるべき何かの資格があったのではなく、ただ、主イエス・キリストの恵みを通して救われ、彼らと同じような人々に福音を伝える使命を与えられたのです。このような思いを与えられたパウロは、真実な神様の恵みに感謝と賛美を捧げたのでしょう。
聖徒の皆様。
私たちはどうでしょうか。私たちがコリント教会の聖徒たちより道徳的に正しく、心も体も聖く、またすべてが優れているからクリスチャンとなったのでしょうか。そうではありません。私たちも罪が溢れるこの世に従って、滅びの道を歩んでいた人でした。しかし、愛と恵み深い神様は私たちをお選びになり、聖徒、聖なる者として呼んでくださったのです。ただ神様の恵みです。
弱い私たちは、時々に不平不満ばかりで、人々に対して愛も赦しも忍耐もなくなり、憎みやねたみが起こり、また神様に対する礼拝も祈りも賛美も捧げたくないというような思いが起こる時があります。これは、神様が私たちを愛してくれない、共にいてくれない、私たちの祈りを聞いてくれないということではありません。今、私たちがどのような存在だったのかを忘れているからです。先週、葛立長老の証しを聞いてから自分の存在を再び考えることができました。感謝いたします。
私たちは、罪によって永遠に死ぬべき存在、滅ぼされる存在でした。何一つも誇ることはありませんでした。しかし、神様は主イエス・キリストを通して私たちを永遠の死から救い出してくださり、永遠に生きる天の希望を与えてくださったのです。また、この世で力強く生きる目的を与えてくださいました。私たちの救いが私たち自らの力と努力で与えられたのではないということをはっきり悟るならば、決して高慢な人生を生きることはできません。また、隣人に対して愛と赦しと忍耐ができる実を結ぶと信じます。もちろん、自分自身も聖霊の実を多く結ぶことができるでしょう。この恵みを覚え、恵まれた人として人生を生きましょう。私たちの力ではなく、聖霊の力で、また神様に祈りながら私たちの心から感謝と賛美が溢れ、愛と赦しと忍耐ができる人生となるように願います。お祈りを致します。
私たちを永遠の死から救い出してくださった主イエス・キリストの父なる神様、この時間も命の御言葉を与え、聞かせてくださり感謝いたします。あなたは滅ぼされる私たちをお選びになり聖徒、聖なる者と呼んでくださいました。あなたの恵みを褒めたたえます。しかし、弱い私たち人間は神様の恵み、また自分の存在を忘れ、愛も赦しも忍耐もなくなり、憎みとねたみ、不平不満の生活をしてしまう時もあります。赦してくださり、再び神様の限りない愛と恵みを覚え、また自分の存在を悟り、感謝と賛美が溢れ、聖徒の道を尊く歩むことができるように導いてください。何より、聖霊を注いでくださり、聖霊の力とあなたの導きによって大胆に神様が喜ばれる聖徒の道を歩ませてください。善通寺教会がこの道を歩み、あなたの栄光を表わすことができるように用いてください。
弱さを覚えている方も、悩んでいる方も、教会から離れている方も、教会に来ることが難しくなっている方も、皆が神様の限りない愛と大きな恵みを再び悟り、また自分の存在を悟り、主の元で感謝と賛美を捧げ、主のように愛と赦しと忍耐強い人生を生きるように助け導いてください。求道者の方が、愛と恵み深い神様に出会い、主の救いの喜びが与えられ、私たちと共にあなたの道を歩むことができるように恵みを与えてください。すべてのことを主にゆだね主イエスキリストのみ名によってお祈りを致します。