休ませてあげよう
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- 説教
- 千禎鎬 牧師
- 聖書 マタイによる福音書 11章25節~30節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
マタイによる福音書 11章25節~30節
この世の多くの人は、慢性的な疲労とストレスを訴えています。成功した人生を生きるために休まず、一生懸命走り続け、疲れがたまっています。それで、いつも倒れてしまうのではないかという不安の中で生きているのが現実です。このような人々にイエス様は素晴らしい招待状を送られました。[疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう] この招待は、どのような資格も、制限も、条件もありません。ただ、疲れ、重荷を負う人がいるならば、だれでも招待をされます。この招待状は、旧約聖書にイザヤ預言者を通して預言されたメシアの約束と同じです。イザヤ書55章1節、[渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。] この預言の御言葉のように、イエス様の招待は何も払わなくても与えられるという恵みの宣言です。まるで、親が子どもを懐に入れてくれるように、イエス様は私たちの全ての状況と条件を超え、ご自分のところに招いてくださいます。
[だれでも]という単語に注目してください。この原語の意味は、例外がない包括性を意味するそうです。学校や職場で、また家庭で、さらにそれぞれの社会で挫折した人生を生きている人や疲れている人、重荷を負っている人たちを主は招いてくださいます。イエス様は、私たちの疲れや重荷を理解し、そのままの姿でご自分のところに来なさいと招いてくださいます。イエス様の招待は、単純な休息や一時的な休みではありません。イエス様は、私たちの魂に永遠に生きる本当の安息を与えてくださいます。イエス様のところに来てイエス様を信じ、イエス様に頼るすべての人々に与えてくださる本当の安息、平安を与えてくださいます。
この平安の原語は、“シャロム”と言います。この原語の意味は、平安と平和の意味です。しかし、それだけではなく、正義と秩序と調和の意味があるそうです。すなわち、個人だけではなく、社会的な関係と神様との関係の中で正しい目的を持って喜びながら前に進む人生を生きることができるという意味です。
私たち人間は、罪を犯してから神様の御心、つまり、神様が人間をお造りになった目的を失ってしまいました。それで、自らが目的を捜し、その目的を成し遂げようとしながら生きています。しかし、それは神様の目的ではありません。本当の目的を失ってしまうならば、平安がありません。それでイエス様は、本当の平安がない人生にこのように言われました。ヨハネによる福音書14章27節を見ますと、[私は、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない]
イエス様が与えてくださる平和、平安は、この世が与える平和、平安と違います。イエス様は人生の正しい目的を悟るようにしてくださり、その目的に向けて前進するようにしてくださいます。個人だけではなく、社会的な関係の中で、何より神様との関係の中で正しい目的がある人生を生きるようにしてくださいます。
29節を見ますと、[私の軛を負い、私に学びなさい]と書いてあります。理解できますでしょうか。 [休ませてあげよう]と言われましたが、なぜ、[私の軛を負い、私に学びなさい]と言われたのでしょうか。
この[軛]とは、私たちを圧迫するような重荷ではありません。農夫が二頭の牛に軛を負わせ、一緒に働きます。このようにイエスは、私たち一人ではなく、イエス様ご自分が共に軛を負うと言われたのです。私たち一人だけ負うことができない人生の重荷を主が共に負うってくださるということです。
山に登る時、登山ガイドは初歩の登山客と共にロープで繋がって山に登ります。ガイドは自分の経験と知識で安全な道を案内し、支えながら一緒に山に登ります。このようにイエス様は、私たちと共に歩み、私たちの重荷を共に負ってくださると約束をされました。
当時の農夫は、牛の首のサイズの形に合うように軛を作ったそうです。イエス様もそれぞれ私たちの状況と環境に合わせて軛を負うようにしてくださいます。私たちの弱さを知っておられるイエス様は、私たちが負える軛を与え、それを共に負ってくださいます。
また、イエス様はご自分が[私は柔和で謙遜な者]だと言われました。これは、単純に性格、品性を表わしたのではありません。イエス様は私たちのために暖かい理解と深い共感を持って私たちと共にいてくださるという約束の言葉です。愚かで弱い私たち人間を叱られず、愛を持って抱きしめてくださるという意味です。[柔和]という原語は、訓練されている力という意味があるそうです。まるで、良く訓練された馬が自分の大きな力を主人の心に従って優しく、従順に使うように、イエス様の柔和は、何より強い力を私たちのために優しく、従順に使ってくださるということを意味します。
イエス様の謙遜は、私たちの現実を深く理解してくださるイエス様の態度を見せてくださいます。人間としてこの世に来られたイエス様は、人間の苦痛と苦しみをすべて経験したので、私たち人間の苦しみと苦難を深く理解し、知っておられます。2025年、5月の最後の時を過ごしている私たちの疲れと重荷を、また職場のストレスや経済的な心配も、未来の不安も、また現実のすべてを知っておられます。このようなイエス様の柔和と謙遜は、私たちに信頼と平和を与えてくださいます。母親に抱きしめられたら子どものように、私たちは主の前にすべてを下ろして、私たちのありのままの姿で生きることができるようにしてくださいます。決して変わることのない姿で私たちを愛してくださるイエス様に私たちの人生を任せることができるのです。
ここに集まってこられた皆様。
この時間、私たちを招いてくださったイエス様の招待状を受け取りませんか。
もう一人だけで重荷を負って過ごさないでください。疲れた体と心を主の前に下してください。主と共に軛を負う時、私たちの全ての重荷は軽くなると信じます。お祈りを致します。
愛の父なる神様あなたの御名を賛美いたします。あなたは、イエスキリストを通して体と心が疲れている私たちを、また重荷を負っている私たちを招いてくださいました。心から感謝いたします。一人で重荷を負っている方や疲れている方に憐れみを与えてくださり、柔和で謙遜であるイエス様に学び、本当の安息の中で生きるように導いてください。愚かな私たちの弱さをすべて知っておられるイエス様は、私たちに休ませてあげようと約束してくださいました。この約束を信じ、イエス様を受け入れ、この世の中で生きる間、主と共に軛を負い、喜びと平和の中で生きるように恵みを与えてください。初めて教会に来られた方、また信仰の弱い方の上にイエス様の安らぎが与えられますように。すべてのことを主にゆだね主イエスキリストのみ名によってお祈りを致します。