わたしたちも主に仕えます
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- 説教
- 千禎鎬 牧師
- 聖書 ヨシュア記 24章1~18節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨシュア記 24章1~18節
私たち信仰者は、自分のアイデンティティについての態度をはっきりしなければなりません。それにもかかわらず、信仰者の中には目の前にある利益や貪欲によって、歩むべき道を歩まない時があります。エジプトから救い出されたイスラエルの民が神様の導きによってカナンの地に入りました。しかし、彼らは再び選択すべき分かれ道に立つようになりました。神様に仕えるのかそれとも世の豊かさを約束するカナンの地の偶像に仕えるのかについての決断をしなければならない状況になってしまいました。実は、イスラエルの人々にとってこれを決断することはそんなに難しい事ではありません。なぜなら、今まで神様がイスラエルの民のためになさったすべてを思い出すならば、どちらを選択すべきかは考えなくても分かるはずです。しかし、罪人である人間は現実的な立場でこれらを決断することは難しいのです。
24章は、ヨシュアがイスラエルの全部族に伝える説教の内容です。特に2-33節まで、[拝む、仕える、礼拝する]という言葉が合わせて15回も出ます。もし、回数が間違っていたら皆さんが教えてください。とにかく、24章はこれらの言葉を使いながら神様だけに仕えることを強調していることが分かります。1節を見てください。ヨシュアは、イスラエルの全部族をシケムに集めました。長老、長、裁判人、役人など。イスラエルを代表する人々も呼び寄せました。ヨシュアが呼び寄せましたが、彼らが神様の御前に進み出たと書いてあります。このシケムというところは、創世記12章6-7節を見ますと、アブラハムがカナンの地に入った時、[あなたの子孫にこの土地を与える]と言われる神様の約束の御言葉を聞き、神様のためにそこに祭壇を築いたところです。今、イスラエルの全部族がヨシュアと共にここに集まったということは、この神様の約束の御言葉が成就されたという意味です。すなわち、神様は約束を必ず守ってくださる真実なお方だということを証明するためです。ここで、ヨシュアはイスラエルの全部族に神様が約束してくださったカナンの地で神様との関係の中でどのように生きていくべきかということを説教しているのです。
まず、2-13節は今まで神様がイスラエルの歴史の中で全知全能の力でなさったすべてのことを覚えなさいという内容が記されています。すなわち、自分たちにすべてをなさってくださった神様の恵みを忘れてはならないという意味です。その内容を見てみましょう。
2節を見ますと、アブラハムの父テラは、昔ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいました。しかし、3節を見ますと、[わたし] すなわち、神様がアブラハムを川向うから連れ出してカナン全土を歩かせ、その子孫を増し加えた。彼にイサクを与えたと書いてあります。これらの全ては、神様の全知全能の力で行われた出来事です。
4節を見てください。神様はイサクにはヤコブとエサウを与えてくださいました。この二人の息子の中で神様は、ヤコブをお選びになりました。4節の最後の部分を見ますと、[ヤコブとその子たちはエジプトに下って行った]と書いてあります。実は、これら全ても神様の御業です。
5-6節を見てください。神様はモーセとアロンを遣わし、エジプトに災いをくだしたが、イスラエルの民をエジプトから導き出してくださいました。
7節を見てください。イスラエルの民が長い間(40年)荒れ野に住んでいましたが、これらの事ができたのは、神様の御力によってなさった出来事です。神様の恵みの働きによって可能となったのです。
8節を見ますと、アモリ人の国をイスラエルの民の手に渡してくださったと書いてありますが、これらも神様がなさった出来事です。9-10節のバラムのことも11節のカナンの部族を征服することもすべて神様がなさったと書いてあります。
ヨシュアは、これらの全てが全知全能の神様がなさってくださったと言いました。イスラエルの民は、最初から神様の恵みと力によって、導かれたのです。彼ら自らは、何もできることはありませんでした。すべてが全知全能の神様の力で成し遂げられたということです。すべての歴史の中で神様が力強い御手を伸ばしてなさったので、この神様を忘れてはならないというメッセージです。
私たち信仰者は、このように神様がなされたことをよく忘れてしまいます。最初は神様がなさってくださったことを覚えて感謝しますが、時間が経ちますと、自分の力によって成したように錯覚する時があります。私たちの人生を振り返りますと、神様がなさってくださらなければ、私たちの力で何ができたのでしょうか。回心、すなわち、私たちが生まれ変わったことも、信仰を与えられたこともすべてが神様の恵みと力で、すべて与えられたものです。救いの喜びもすべて神様の御心、神様の力によって与えられました。私たちを神様の子どもとならせてくださったことも、毎日導いてくださることも神様の恵みと力によってです。私たちの人生のすべては、全知全能の神様の恵みと力によって導かれているのです。自分が優しいから、性格も良いから、仕事が良くでき、他人より優れているから…これらの錯覚と高慢の心を持ってはなりません。
ある牧師がこのように言ったそうです。[私たちは水の中にいる魚と同じだ。自分の力できれいに泳ぎ、生きているように見えますが、水がなければ何もできない。そのように、私たちも溢れる水のような神様の恵みがなければ、何もできない存在だ] 私たち信仰者は、神様の力と恵み、また導きがなければ生きることができないということを悟らなければなりません。
ですので、ヨシュアはどのようにしなさいと言いますか。14節を見てください。
[あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい]
神様は、イスラエルの民がヨルダン川を渡るようにしてくださり、カナンの地を征服するように、またカナンの地を嗣業の土地として与えてくださいました。これらの全てが神様の恵みです。ヨシュアは、その恵みを受けた人としてふさわしく生きるように説教しています。また15節を見ますと、神様なのかそれともアモリ人の神々なのかを選択しなさいと言いながら、神様だけに仕えなさいと力強いメッセージを伝えたのです。さらに、ヨシュアは自分の信仰をはっきり表わします。15節の最後の部分を見ますと、[ただし、私と私の家は主に仕えます]
自分だけではなく、自分の家、家庭も同じように神様に仕えますと言い、責任を取り、神様に仕えることを宣言したのです。すなわち、すべてをなさった全知全能の神様だけに従い、仕えるという強い意志を見せてくれました。すると、イスラエルの民の反応はどうでしょうか。16節を見ますと、[主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません]、また18節の後半部分を見ますと、[私たちも主に仕えます。この方こそ、私たちの神です]とはっきりした信仰の告白をしました。
今日の御言葉を通して私たちは二つのことを深く考えなければなりません。
まず、神様の民は神様だけに仕えるということです。神様に仕える時、忠実に、また誠実に仕えなければなりません。全力で仕えるべきです。神様と偶像を同時に仕えることなどありえないことです。マタイによる福音書6章24節にこのように書いてあります。[誰も、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない]
神様に仕えないと、偶像を崇拝するようになります。神様以外のほかのものが主人になろうとします。富であれ権力であれ、また名誉であれ地位であれ、快楽であれ欲望であれ、ほかのものが主人となろうとします。神様のふさわしい民は、忠実に、また誠実に神様だけに仕えなければなりません。このように私たちは、神様だけに仕えますという信仰告白をしなければなりません。
また、私たちはヨシュアのような信仰の責任、信仰の継承を深く考えなければなりません。
[ただし、私と私の家は主に仕えます] この信仰告白が、家、また家庭の責任を取る人の決断力のある信仰告白です。世の人々は、神様に背き、神様から離れても[ただし、私と私の家は主に仕えます]という決断力のある信仰告白、信仰が与えられますように願います。さらに、このような信仰を私たちの子どもたちや子孫に継承するように最善を尽くし、生きていきましょう。お祈りを致します。
唯一で全知全能の神様、今日も霊の糧である御言葉を与え、聞かせてくださり感謝いたします。全知全能のあなたは私たち人生の中ですべてをなさるお方であり、恵みを与え導いてくださるお方であります。それにもかかわらず、貪欲が溢れる私たち人間は、神様だけに仕えることなく、自分の欲望や満足を満たすために世の多くのものを自分の主人として受け入れようとします。赦してくださり、何があっても、[ただし、私と私の家は主に仕えます]という信仰告白をするように私たちの信仰を強めてくださり、導いてください。ここに集まっているお一人お一人が、善通寺教会の聖徒の皆様が、[ただし、私と私の家は主に仕えます]という強い信仰を持つように、またこの信仰を表わすことができるように用いてください。
弱さを覚えている方、悩みによって苦しんでいる方のために祈ります。彼らが全知全能のあなたの癒しと慰めを与えられ、困難の中でも、[ただし、私と私の家は主に仕えます]という信仰をもって、最後まで主に仕える人生を生きるように、さらにあなたの平和と報いを与えてください。求道者の方が、全知全能の神様を信じ、主だけに仕える幸いを与えてください。新しく教会に来られた方が、あなたの恵みと導きを悟り、あなただけに仕える信仰を与え、祝福された人生を生きるように恵みを与えてください。教会から離れている方が主の元に帰り、[ただし、私と私の家は主に仕えます]という信仰告白ができるように、主だけに仕える幸せな人生を生きることができるように導いてください。新しい今週も世の多くの人は神様から離れても私たち皆は、[ただし、私と私の家は主に仕えます]という信仰告白をし、主に仕え、従う日々の生活ができるように導いてくださり、あなたが共に歩んでください。すべてのことを主にゆだね主イエスキリストのみ名によってお祈りを致します。