私がお前に変わって
- 日付
- 説教
- 千禎鎬 牧師
- 聖書 サムエル記下 18章1節~19節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
サムエル記下 18章1節~19節
今日は、シメオンの会としての説教をします。多くの親はこのような思いを持っています。まず、自分の子どものためには何でもしてあげたいという思いです。もう一つは、親が子どもに沢山の事を満たしてあげたかったのに、いつもそれが十分にあげられなかったという思いです。これが親の心であり、人生です。両親が生きておられる方は、いつもその親の心を悟り、“ありがとうございます、感謝します。愛します。”と告白しましょう。また、お父さん、お母さんである方々は、恥ずかしがらずに、それに対して喜んで受け取ってください。
ダビデは、人生最大の悲劇を迎えます。ダビデの息子の中で一番優れて、多くの人に愛されたアブサロムが、年老(お)いた父を追い出して、自分が王となろうと父に反乱(はんらん)を起こしました。反逆したのです。父であるダビデは、息子との全面戦争を避け、王宮から引き下がりました。続けて追撃(ついげき)して来るアブサロムの軍隊から逃げられなかったダビデは、ついに自分の息子に従う軍隊と戦います。しかし、父であるダビデは、戦いに行く兵士たちにこのように言います。18章5節を見てください。[王は、ヨアブ、アビシャイ、イタイに命じた。“若者アブサロムを手荒(てあら)には扱(あつか)わないでくれ。”兵士は皆、アブサロムについて王が将軍たち全員に命じるのを聞いていた。]
戦いからダビデの軍隊が優勢(ゆうせい)になりました。それで、アブサロムは、後退します。退(しりぞ)きます。しかし、アブサロムは後退する時いつも自慢であった髪の毛が木にひっかかり、天と地の間に宙(ちゅう)づりになりました。これを見た兵士たちは、王の息子であるアブサロムを手にかけたりはしませんでした。すなわち、殺すことができませんでした。 王の命令があったからです。しかし、ヨアブは棒(ぼう)を三本取り、アブサロムの心臓(しんぞう)に突き刺しました。そして、ヨアブの武器を持つ従卒(じゅうそつ)十人が取り囲んでアブサロムを殺してしまったのです。
戦いがどのようになったのか早く知りたかったダビデに勝利の知らせが伝えられます。しかし、ダビデは何よりも早く自分の息子について聞きます。8章29節と32節を見ますと、 [若者アブサロムは無事か] と二度聞きます。知らせを伝えるために来た二人目の人、クシュ人がアブサロムのことを王に伝えます。[主君、王の敵、あなたに危害(きがい)を与えようと逆(さか)らって立ったものはことごとく、あの若者のようになりますように] つまり、戦死(せんし)の知らせを伝えたのです。すると、19章1節を見ますと、ダビデは城門の上の部屋に上(のぼ)って泣きます。[私の息子アブサロムよ、私の息子アブサロムよ、私の息子アブサロムよ、私がお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、私の息子よ、私の息子よ] 王としてのダビデではなく、父としてのダビデの心が分かります。父親の心をよく表しています。父親としては、この戦いを避けたいという思いでした。また、たとえ、自分に向かって刀(かたな)を構(かま)え、王座を取ろうとした息子であったとしても、その息子の安否(あんぴ)をもっと心配していたのです。
19章1節を見ますと、[私がお前に代わって死ねばよかった] という言葉が書いてあります。これはダビデ自身が犯した罪によって与えられた悲劇だということを見せます。
ダビデはウリヤの妻であるバト·シェバと姦淫の罪を犯しました。また、その罪を隠すために忠誠で、何も知らないバト·シェバの夫であるウリヤを敵によって殺すようにした大きな罪を犯したことがあります。もちろん、罪を告白し、悔い改めましたが、ダビデは今の悲劇が自分によって起こったと自責(じせき)していたのです。罪の怖さについて分かります。
シメオンの会の皆様、また親の皆様。私たち弱い人間は、罪から完全に自由になることはできません。しかし、ダビデのように自責するほど、皆様の子どもたちに過ちを犯したことはないでしょう。ですので、子どもたちに多くのことをしてあげられなかったと、自責しないでください。シメオンの皆様と親の皆様は、子どものために苦労をしました。賞賛を受けなければなりません。力がなかったということで、非難を受ける理由とはなりません。最善を尽くしてなかった無責任と怠惰(たいだ)については神様に叱責を受けますが、子どもたちに叱責を受ける理由とはなりません。ここに座っているシメオンの会の方、また親の方に言いたいです。[よく支えてくださいました。育ててくださってありがとうございます。ご苦労様でした。]
もう一つ話したいことがあります。父としてのダビデの心を通して父なる神様の御心を知ってほしいです。神様の御心を悟ってほしいです。
剣を持って父親と戦い、父の地位を自分が取ろうとした悪い息子でしたが、ダビデは、[私の息子アブサロムよ、私の息子アブサロムよ、私の息子アブサロムよ、私がお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、私の息子よ、私の息子よ] と言いました。
数日前、夜中に我慢できないくらいお腹が痛くなって、妻に救急車を呼ぼうかと言ったことがあります。しかし、いろいろな処置(しょち)をしてある程度落ち着いたので、救急車を呼びませんでした。すると、妻がこのように言いました。“子供を産む時、お腹がどれくらい痛いか知っていますか。今の痛さよりもっと痛いですよ”その時、何の答えもできなかったです。
子どもに対する母親の愛は、どのようなものとも比べられないと言われます。なぜでしょうか。言えないほどの、痛みに耐えながらも子供を産んだからです。また、子どもを産むためにお腹で子供を10か月間持ちます。風邪を引いても薬を自由に飲めません。つわりなど、食べることも大変です。また行動制限(せいげん)があります。なんでも自由にできません。とにかく、これ以上の苦労をして生んだ子どもを母親は、目に入れても痛くないほど、愛します。これが母親の愛です。
イエス様はなぜ、私たちを愛されるのでしょうか。イエス様は、私たちのために母親よりもっと苦しい十字架の苦しみを受けたからです。いくらでも避けることができたし、逃げることもできました。また、イエス様がもしこのように逃げたとしても罪人である人間は、イエス様になぜ、そのようにしたのですかと言うことはできません。しかし、イエス様は私たち人間のために死に至るまで私たちを愛してくださり、十字架の苦しみを受け、死んでくださいました。私たちの父なる神様は、罪を犯した私たちにそのようにしてくださったのです。神様は、私たちを孤児(こじ)のように放置されません。必ず、私たちを助けてくださり、導いてくださり、御手を伸ばして守ってくださいます。さらにイエスキリストを通して限りない愛で、愛してくださいます。放蕩息子を待っている父親のようにいつも神様の元に帰るように待ってくださいます。神様は、私たちの永遠の父なる神様です。
シメオンの会の皆様、また親の皆様。今まで子どもたちを愛してくださり、育ててくださりありがとうございます。しかし、ここで留まることなく、永遠の父なる神様のように、まだこの世で迷っているこどもたちがいれば、諦めず、彼らを永遠の命を与える道に歩むことができるように手を伸ばして、また愛を持って声をかけましょう。子どもたち皆が救いの喜びが与えられますように祈り、神様の愛を表しましょう。
ここにいる皆様が父なる神様の愛を悟り、また神様のように愛し合いながら親として、また子どもとして生きましょう。お祈りを致します。
天におられます父なる神様、今日、シメオンの会の説教として御言葉を与えてくださり、感謝いたします。父なる神様、あなたは私たちのために御子イエスキリストをこの世に送ってくださり、イエス様が死に至るまで私たちを愛してくださいました。この神様の愛を心から悟り、神様の愛を表すことができるように導いてください。特に今まで、愛し、また自分のすべてをささげながら子どもたちを育てて来られたシメオンの会の皆様に慰めと励ましを与えてください。主が呼ばれるその日まで父なる神様の御心を持ち、子どもたちを愛し、また祈り、神様の愛を伝えることができるように力と健康を与え、用いてください。そして、神様の愛を悟り、表わすことができる主の愛を注いでください。
ここに集まっているお一人お一人が、親を愛し、尊敬することができるように、また続けて神様の愛を持ち、子どもたちを愛し、子どもたちのために良い模範となるように導いてください。
弱さを覚えている方、苦しんでいる方を覚え祈ります。父なる神様の愛を与え、慰めと励まし、また癒される恵みを与えてください。さらに置かれた環境のすべてを乗り越えることができるように信仰を与えてください。求道者の方が、父なる神様の愛を悟るように教会に呼んでくださり、信仰を与え、救いの喜びを与えてください。教会から離れている方が、父なる神様の御心を悟り、今も待っておられる神様の元に帰ることができる恵みを与えてください。今日、礼拝参加かできなかったシメオンの会の皆様の上にも神様の愛が注がれ、置かれた環境の中でも愛を表し、生きるように導いてください。また共に礼拝を捧げる日を与えてください。シメオンの会の皆様と、また子どもである私たちが互いに尊敬し愛し合うことができるように。すべてのことを主にゆだね主イエスキリストのみ名によってお祈りを致します。