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2024年09月01日「礼拝と御言葉の回復」

礼拝と御言葉の回復

日付
説教
千禎鎬 牧師
聖書
ヨシュア記 8章30節~35節

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日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨシュア記 8章30節~35節

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イスラエルの民がアイを占領したのは、とても重要なことでした。アイの位置は、軍事的に要地(ようち)の役割をするところでした。このアイを神様の力によって占領することができたのです。イスラエルの民は、このアイを占領した後、最初に何をしたのでしょうか。それが今日の箇所に出ます。神様のための祭壇を築(きず)きました。すなわち、神様に礼拝を捧げ、律法、つまり神様の御言葉に従うことがどれくらい大切なのかを強調する儀式を行ったのです。これは、申命記27章1-8節に、モーセがモアブ地方で集まっていたイスラエルの民に命令した内容に従った通りに行った儀式でした。この儀式は、イスラエルの民に約束の地を与えてくださった神様に対して礼拝と神様が律法を通して言われた御言葉を忠実に従いますという誓約(せいやく)の意味を含めています。

30節を見てください。[そのころ、ヨシュアはエバル山(やま)にイスラエルの神、主のための祭壇を築(きず)いた。] まだ、占領しなければならない地域が多くあり、戦いが続いていますが、ヨシュアは、まず、祭壇を築いたのです。この祭壇は、31節によりますと、主の僕モーセがイスラエルの人々に命じ、モーセの教えの書に記された通り行ったと書いてあります。
ヨシュアが築いた祭壇は、神様の御言葉通り築いたと言っています。祭壇を築きながらも神様の御言葉に従うことについて話しています。
出エジプト記20章24-25節を見ますと、神様に祭壇を築く時、土の祭壇を築き、焼き尽くす捧げものを捧げなさいと記されています。すると、神様は、“私の名の唱えられるすべての場所において、私はあなたに臨(のぞ)み、あなたを祝福する”と記されています。しかし、“もし、私のために石の祭壇を造るなら、切り石で築いてはならない”と記されています。ヨシュアは、この御言葉通りに従ったということです。今日の箇所、31節の真ん中から見ますと、[鉄の道具を使わない自然のままの石で造られた]と書いてあります。この祭壇の上で焼き尽くす捧げものと和解の捧げものを捧げました。“焼き尽くす捧げもの”とは、神様にすべてを捧げるという意味があり、“和解の捧げもの”とは、神様の恵みによって神様の御前に大胆に行くことができたという意味があります。とにかく、ヨシュアは、記された御言葉通り従順する姿を見せてくれます。

祭壇は、ゲリジム山(祝福を宣言した山)ではなく、エバル山(呪を宣言した山)に築くようにします。エバル山は、神様の民が神様の御前で罪を犯すならば、呪を受けるようになると宣言するところです。しかし、ここに祭壇を築きました。この祭壇は、鉄の道具を使わない自然のままの石で造られた祭壇です。何の飾りもない祭壇です。人間の設計と人間の技術など。何も加えずに、神様の御言葉通りに築いた祭壇です。この祭壇で神様と出会うのです。すなわち、人間のどのような思いも考えをも持って神様の御前に出てはならないという意味があります。神様の御前に罪を犯すならば、人間の方法ではなく、神様の方法、すなわち、神様が言われた御言葉通りに築いた祭壇を通して神様の御前に来なさいという御言葉です。私たちは、神様の御前に行くとき、そのような方法で行かなければなりません。今の時代には、人間的な方法や方式が多すぎるのが問題です。

32節を見てください。[ヨシュアはこの祭壇の石に、モーセがイスラエルの人々のために記した教えの写(うつ)しを刻んだ]
ヨシュアは、再び、モーセがイスラエルの人々のために記した教え、律法を中心に表しています。ヨシュア記を最初から続けて見ますと、[モーセの律法]を強調しています。ヨシュア記1章7節と8節からモーセの律法を強調していますが、今日の箇所である31節と32節を見ますと、モーセがイスラエルの人々のために記した教えの書を強調しています。34節にも[律法の言葉、律法の書]を記しています。神様に祭壇を築いた後、律法を学ばなければならないということを示唆(しさ)しています。
[律法の言葉、律法の書]というは、神様の御言葉です。ヨシュア記は、従順を強調しますが、この従順は神さまの御言葉に対しての従順です。神様の御言葉に従順することこそ、神様に従順することだからです。ですので、本当に神様を信じ、神様を敬っているのかの証拠は何でしょうか。それは、神様の御言葉に従って生きていることです。神様の御言葉こそ、神様の民が生きる原理であり、基準です。神様の御言葉を軽んじることは、神様を軽んじることと同じです。
さらに御言葉に従う時、大切なことは、御言葉の意味を正しく悟って従うことです。神様が言われた御言葉の意図、意味を悟って従順することです。ただ頭の中に入れる知識ではなく、御言葉通り生きることが大事です。神様の御言葉を宝物のように大切にして持つことではなく、御言葉通り生き、従うことを神様は願っておられます。従順するために神様の御言葉である律法を聞くわけです。

33節を見てください。[全イスラエルは、長老、役人、裁判人をはじめ、寄留者(きりゅうしゃ)もその土地に生まれたものも、主の契約の箱を担(かつ)ぐレビ人である祭司たちの前で、箱のこちら側とあちら側に、半分はゲリジム山の前に、他の半分はエバル山の前に立った。それは主の僕モーセがかつて命じたようにイスラエルの民を祝福するためであった。]
これは、申命記27章の御言葉通り行ったことです。申命記27章4節に[あなたたちがヨルダン川を渡ったならば、私が今日命じるこれらの石をエバル山に立て、しっくいを塗り]と書いてあります。また、申命記27章12-13節には、[あなたたちがヨルダン川を渡ったならば、民を祝福するために、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ヨセフ、ベニヤミンはゲリジム山に立ち、また呪うために、ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリはエバル山にたちなさい]と書いてあります。ヨシュアは、申命記27章の御言葉通り行っているのです。

ゲリジム山とエバル山は、シケムの間に向き合ってそびえ立つ山だそうです。自然的に素晴らしい音響効果を出せる位置にある山だそうです。ゲリジム山(870m)は、樹木(じゅもく)が茂(しげ)って、一年中、木が多くあるそうです。一方、エバル山(920m)は、草もあまりなく、木がない山だそうです。ゲリジム山で、祝福の御言葉を宣言するようにし、エバル山では、呪いの御言葉を宣言するようにします。34節を見てください。[その後ヨシュアは、律法の言葉すなわち、祝福と呪いをことごとく、すべて律法の書に記されている通りに読み上げた] 35節を見ますと、[ヨシュアは、モーセが命じたことをひと言残さず、イスラエルの全会衆、女、子供、彼らの間で生活する寄留者の前で読み上げた]と書いてあります。神様の御言葉に忠実に従うヨシュアとイスラエルの民の姿が見られます。彼らはすでに経験し、その経験を通してすでに学びました。エリコを占領する時とアイを占領する時、神様の御言葉に従った時、どんなに強い敵に対しても勝利することができ、御言葉に従わなかった時には、どんなに弱い敵に対しても敗北(はいぼく)してしまう経験をし、学んだのです。イスラエルの民は、神様の御言葉に従うならば、カナンの地に入ることができる、また生きのびることができるということを経験を通して学びました。このイスラエルの民のためにこのような祝福と呪いの御言葉を読み上げ、民は“アーメン”と言うようにします。とても効果的な教えとなったのです。

今、イスラエルの民は戦争中です。しかし、なぜ、この内容を大切に記していたのでしょうか。イスラエルにとって戦争、戦いも緊迫する時ですが、それよりもっと緊迫し、重要なことがあるということです。それは、申命記27章を通して神様が命令された通り行うことです。申命記27章は、神様がイスラエルの民と結んでくださった契約の内容とまたイスラエルの民が契約の民として歩まなければならない道について記されています。イスラエルの民は、神様との契約を覚え、その契約を神様の民としてふさわしく生きなければなりません。このことこそ、今、イスラエルの民が戦っている戦争より大切なことだからです。
私たちも同じです。私たちはイエスキリストの血を通して結ばれた神様の民であります。私たちの教会、この世のすべての教会は神様の民の共同体です。私たちは何より、神様の尊い民であることを悟り、誇りを持たなければなりません。主日を守り、礼拝を捧げることもこの意味が含まれています。イエスキリストの血を通して結ばれた神様の民にとって一番大切なことは、神様に従順し、神様の御言葉に従うことです。契約の民として生きる目標は、神様の御言葉を守り、従うことです。救われた民は、人生を自分のために生きる人ではありません。主の尊い血を通して永遠の命を与えられた契約の民、また天の民は、神様が喜ばれることを行うべきです。神様の御言葉に従い、感謝の礼拝を捧げることを大事にし、これらのことを忘れてはなりません。お祈りをいたします。



私たちの救い主であり、契約の主である主イエスキリストの父なる神様、今日も命の御言葉を与え、聞かせてくださり、感謝いたします。神様は、私たちをお選びになり私たちを天の民とならせてくださいました。さらに、神様の民として、尊く生きる契約を結んでくださいました。本当に恵みであり、祝福であります。しかし、愚かな私たち人間は、神様の民として歩まなければならない道を歩まず、また神様が喜ばれることの代わりに自分の楽しみと自分の目標のために、自分を中心として生きる時があります。赦してくださり、もう一度、神様の民として回復しなければならないことを悟り、何より神様の御言葉に従い、神様が喜ばれ、出会ってくださる礼拝を回復することができるように憐れみを与えてください。ここに集まっているお一人お一人が、神様の民として選ばれた恵みを再び悟り、御言葉に従い、感謝の礼拝を通してあなたの限りない祝福と恵みが与えられますようにお願いいたします。また、善通寺教会の聖徒の皆様が、神様の民として選ばれたことを喜び、感謝し、神様の民としての道を尊く歩むことができるように、またその歩みの上にあなたが共にいてくださり、天からの祝福と報いが与えられますように。これを見た多くの方が、救い主主イエスキリストを信じるように、また天の民として加えられるように恵みを与えてください。
弱さを覚えている方、悩んでいる方が世の苦しみと悲しみがあると思いますが、天の民として選ばれた恵みを覚え、慰められ、主が来られる日まで信仰を守り、力強く生きるように導いてください。新しい9月を迎えました。新しい9月も神様を信じるすべての人が、神様の御言葉に従い、感謝の礼拝を通して神様をあがめるように。台風によって被害を受けた多くの方の上にあなたの慰めがありますように。また主を出会う恵みが与えられますように。すべてのことを主にゆだね主イエスキリストのみ名によってお祈りをいたします。

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