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2024年08月18日「主イエスから目を離さず」

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日本聖書協会『聖書 新共同訳』
フィリピの信徒への手紙 12章1節~2節

原稿のアイコンメッセージ

今日の奨励のみ言葉として、私に与えられましたのは、ヘブライ人への手紙12章1節、2節でございます。このうち後半の2節は、日曜学校の7・8月のテーマソングの箇所でもあり、7月第1主日より、この箇所に曲をつけ、毎日曜学校の中で讃美してきております。
 テーマソングの選定は私が一任をいただいており、2か月間の日曜学校のテキストにある暗唱聖句のなかから、まず聖句を選びます。2か月の8ないし9の主日のやはり8ないし9箇所の み言葉から選ぶことになります。いずれも、暗唱聖句として、教案誌編集局が選定しているみ言葉ですので、どれを選んでもよいのですが、その中でもとりわけ是非子どもたちに暗唱して、心に蓄えてほしいと、そう思う聖句を一つ選びます。
 私が一番最近日曜学校のお話担当しましたのは7月第3主日でしたが、その日の暗唱聖句が丁度ヘブライ人への手紙のこの箇所でありました。おはなしそのものは、マタイ14章の箇所を題材にしておりまして、そのあらましを申し上げますと次のようであります。
 弟子たちが舟に乗ってガリラヤ湖を渡っていたが逆風に悩まされていた、その時にイエス様が湖の上を歩いて来られた、それを見て、ペトロが私にも歩かせてくださいと言い、イエス様のほうに向かおうとして、しかし、風に気を取られ、イエス様から目を離し、溺れそうになった、という記事です。ここでテキストがこどもたちに伝えたいポイントとしたのは、イエス様から目を離すな、いつも絶えずどんな時も、いついかなる時も、イエス様を見つめ、イエス様から目を離さず、イエス様に導かれて歩みなさい、という点でありました。そこで、このヘブライ人への手紙の箇所、特に「イエスをみつめながら」、この言葉から暗唱聖句とされていた訳です。
 日曜学校でおはなしをした当日、テーマソングを共に歌い、聖句の内容を説明したうえで、湖の上のイエス様のストーリーを絵本を用いてお話しをし、最後にこの聖句に今一度戻って、イエス様からいつも目を離さず、歩んでいこうね、と閉めました。
 この日曜学校のお話しの準備をする際に、ヘブライ人への手紙のこの箇所から私は少しく学びが機会が与えられ、これを8月に予定されていた今日の奨励の箇所として、その学びの一端を語り、お奨めに代えるよう、神様から示されました。
 テーマソングとする聖句が決まれば、次の作業はそこに曲をつけていきます。聖句を口ずさみながら、そこに音符を乗せていくのですが、今回のテーマソングについても、そのした作業をする段階で、聖句を口ずさむ際に違和感を覚えた箇所がございました。違和感を覚えつつもそのまま曲とし、それを現在共に歌っているのですが、その違和感から今回改めて学ぶことを許され、そして、その学びの一端をお伝えすることとしました。
 そこで、皆さんにもお聞きしますが、この12章2節のどこか違和感をお覚えになりませんか。
 今私たちは新共同訳聖書の訳を用いておりますが、私は信仰に入った当時は日本聖書協会の口語訳聖書を用いておりました。その後、聖書刊行会の新改訳聖書が出され、そして、現在の新共同訳と、3つの日本語訳に接してきております。 文語訳聖書から入られた方もおられるでしょうか。
いずれにせよ、かつて用いていた訳が頭に残っておりますから、別の翻訳で、異なる訳語が用いられていますと、違和感を覚えることが、時にございます。ですから、その意味では違和感はいくつもありましょう。ですが、今回、私が違和感と申しますのは、確かに訳の違いでもありますが、ここまで訳に大きな違いがあるのか、と思わされた箇所であります。
 私が違和感を覚えましたのは、2節の途中からですが、「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て」というところです。これは、私の頭に残っている同じ箇所の訳とは大きく違うな、と感じたのです。しかし、そう感じただけで、確認もせず、そのままにしておりました。そして、日曜学校のお話しが当たり初めて、この箇所の他の日本語訳を改めて確認した次第です。
 紹介していきましょう、聖書協会口語訳では「彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに」、新改訳は「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに」、更に文語訳は「彼はその前に置かれたる歡喜(よろこ)びのために」とあります。つまり、これまで私たちが親しんできた訳は、「よろこびのゆえに」または「よろこびのために」なのであります。それが、新共同訳では「喜びを捨て」とありますので、もはや正反対ともとれる訳になっていまして、これが私の違和感の正体であったのです。一体これはどういうことか、この問いが、今日の奨励の出発点になった次第です。
 ただ、この点に更に言及しますのは、また後程としまして、奨励とはいえ、やはりみ言葉から教えられねば、この時間に相応しくありませんので、改めて今日の箇所の冒頭より、ご一緒にみ言葉から教えをいただきましょう。

 まず1節の冒頭ですが、「こういうわけで」と始まっています。こういうわけとはどういうわけなのでしょう。その確認をする上でも、もう少し先に読み進めますと、「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上」と続きます。
 「おびただしい証人の群れ」とは何でしょう。この答えを探るうえで、ひとつ前の11章を見る必要がございます。11章はその冒頭、1節で「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」にはじまり、2節「昔の人たちは、この信仰の故に神に認められました。」と語ります。
 4節以下になりますと、信仰によって神様に認められた人たちの名前が連なります。名前を挙げるだけでなく、これらの人々が信仰によって為したことを述べていきます。4節アベル、5節・6節エノク、7節ノアと続き、8節から22節まで、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブについて語られ、23節から29節までがモーセ、そして、31節にはラハブについて述べられています。ラハブについては、つい最近、6月16日の説教で学びましたし、このヘブライ11章の箇所は説教でも言及されています。そのラハブを語ったあとの32節になると、「もはやこれ以上何を話そう」とその後の人々の名前ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエルと掲げられます。このように、旧約の人々、11章2節の言葉を借りれば「昔の人々」、これらの人々が「信仰によって」為し得てきたことを、ここで語っています。
 12章1節の「おびただしい証人の群れ」とは、これら旧約の人々のことであります。これらの人々に囲まれている以上は私たちはどうあるべきか、どうあらねばならないか、それをヘブライ12章1・2節は語っているわけです。
 さて、そもそもこの「ヘブライ人への手紙」とはどんな手紙なのでしょうか、誰が誰に書き送ったものなのか、どんな目的で書かれたものなのか、それらをここで確認しておきましょう。
 「ヘブライ人への手紙」は「フィレモンへの手紙」に続いて置かれており、古くは、ここまでをパウロ書簡と総称されており、パウロが書いたものと取られていました。しかし、パウロが著者ではないというのが現在の定説で、そして、この手紙を書いた人物は不明というのが結論となります。ある方が、次のように書いておられます。「この著者は無名であるが、こんなにすばらしい言葉を語ることができた人の名前すら留まっていないということ、それもまたすばらしいことである、神はこのような人をどんなに多く用いて、ご自身の言葉を語られたことであろうか。」誰が書かれたか、不明だ、また無名の人だと言って、価値が低いという訳ではなく、むしろ「素晴らしい言葉」だと評価されています。書いた人の名が残されていないこと自体が素晴らしい、とも言われます。ある人はまた、「ヘブライ人への手紙のギリシャ語は新約聖書の中でも、もっとも格調高い」とさえ語られます。
 ただ、手紙ですから、誰に送られたものなのかは気になるところです。が、この問いにも、やはり不明だというのがその答えになります。とは言え、手紙の内容から、キリスト者へと改宗したヘブライ人、つまり、ユダヤ人キリスト者であることは確かです。そして、10章32節から39節に書かれていますが、キリスト者になったがゆえに、困難や迫害に直面している信者たちに対して信仰を保つように勧めるのが、この手紙の目的でもあるようです。
そして、この日本でキリスト者とされた祝福に与りながらも、困難を覚えている私たちに語られていると受け取り、お聞きすることが出来ると、いえ、お聞きしなければならないと、言えるのではないでしょうか。

 話を戻しましょう。アベルにはじまり、ノア、アブラハム、ヨセフ、モーセ、ラハブ、と、旧約の多くの証人たち、おびただしい証人たちが、「信仰によって」為し得てきたことを11章は綿々と紹介し、旧約の多くの先人たちの、信仰にあっての祝福を述べます。11章1節、2節の言葉をお借りして、もう少し申し上げますと、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認し、信仰のゆえに、信仰によって、神様に認められた人々を回顧しているわけです。
しかし、今私たちは千先生を通してヨシュア記を学んできていますが、ラハブの名が記されているのに、ヨシュアの名前がないことが気になります。少しく調べましたが、この手紙の著者がヨシュアの信仰を認めていない訳ではなく、むしろラハブの信仰を強調したかったからだ、とある講解書に述べられていましたので、それで納得をしたいと考えますが、ただ、先ほど述べましたこととの関連でもう少し申しますと、無名の人が書いたこの「ヘブライ人への手紙」です、ラハブは聖書に名を残してはいるものの、この世的には名もない小さな身分的にも低い人物です。でありますが、信仰によって生き、神様に認められた代表的な人物として、無名である著者が取り上げ、無名の多くの読み手を励ましたかった、のではないでしょうか。そうした意味では、11章に列挙された信仰によって認められた証人たち、そのなかでも、この手紙の著者が最も名前を挙げたかった人物が、ラハブであったのではないか、そのようにも、私には思えるのです。
 ところで、そのラハブ、そして、アブラハム、モーセ、ダビデたちは、信仰によって神様に認められた、そう称賛されながらも、11章の最後には、とても残念な言葉をもって語られています。39節で「約束されたものを手に入れませんでした」と言われます。これはどういうことだろうと疑問符が立つのですが、更に疑問に疑問が重なるのですが、その前の33節には、「約束されたものを手に入れ」とあるのです。33節で「約束されたものを手に入れ」と語ったにもかかわらず、そのあとの39節では「約束されたものを手に入れませんでした」と言うのです。矛盾しているように思えます。
 そこで、ギリシャ語原典を紐解いてみました。原典からわかることは、33節でいう「約束されたものは」は複数形で語られますが、39節は単数形なのです。しかも英語で言えば the に当たる定冠詞がこちらには付けられていました。英訳聖書を確認しますと、確かに今申し上げたように、この2か所は単数形、複数形で区別されますし、theがつく、つかないもそのとおりでした。日本語訳もこうした区別が訳の上でもしてほしいなと思います。
 とにかく、こういうことになるのでしょうか。先人たちはいろいろと約束されたものは与えられた、地上的な必要は満たされた、しかし、究極の約束されたものは手に入れることが出来なかった、ということでありましょう。
 そして更にそのうえで、続く40節ではこう述べられます。「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかった」。先人たちは、約束を手に入れられなかった、 それなのに、「わたしたちのために、更にまさったもの」を神様は計画された。 だから、彼らは「完全な状態に達しなかった」「わたしたちを除いて」
 つまりは、裏返しますと、先人たちとは異なり、私たちには、約束されたもの、更にまさったもの、それが与えられ、私たちは完全な状態に達している、と語っている訳です。
 そして、この11章39・40節を受けて、今日のみ言葉、12章1・2節「こういうわけで」と続くのです。つまり、先人たちには与えられなかった、しかし、私たちを完全なものとする約束、それが、2節「信仰の創始者、また完成者であるイエス」だと語っていきます。
 旧約の時代の人々は、メシア、キリストを待ち望みました、しかし、その約束を待ちながらも、そして、神様からの称賛を受けながらも、究極の祝福、即ち、約束のキリストは与えられませんでした。けれども、信仰の創始者であるイエス様、そして、私たちの信仰の完成者であるイエス様を、私たちは知っているではないですか。そのイエス様が、私たちに与えられているではないですか。 あの先人たち、おびただしい証人の方々は、イエス様を与えられることのないままであったけれども、それでも、信仰のゆえに、神様に認められる歩みをされたのです。そんなすばらしい方々に私たちは囲まれているのだから、ましてや、私たちはイエス様が与えられてるのですから、だから、「すべての重荷」を、「絡みつく罪」を、「かなぐり捨てて」、「自分に定められている競走を走り抜」きましょう、「忍耐」をもって、そう1節は語ります。
 1節の言葉、「自分に定められている競走を走り抜こうではありませんか」これは、天国を目出して走る信仰のレースを語っています。この競争を、このレースを、「忍耐強く」と、ヘブライ人への手紙は語ります。では忍耐強く走るには、どうすればよいのか。それが、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめて」だ、と言います。
 聖書の訳によっては、走る抜く、というのと、見つめる、というのを並列、列挙しているものもあります。つまり、走り抜きなさい、そして、見つめなさい、ということですが、しかし、やはり拙い者ですが、原典から読み解きますと、見つめることによって走り抜ける、そう読むべきだと、私は解釈しましたし、この新共同訳もその趣旨で訳されていると思います。
 ただ、「見つめる」「見つめながら」という訳については、いささか申し上げたいのであります。文語訳、口語訳、これらは「仰ぎ見つつ」、今使っています新共同訳、そして、一番新しい聖書協会共同訳では「見つめながら」、ですが、新改訳は「イエスから目を離さないで」とあります。
 これまた、原語に当たりますと、「視線を釘付けにして」とするのが適訳ではないかと私は思うのです。ですから、日本語訳聖書の中では、この点に関しては新改訳聖書が最も言い当てた訳だと考えました。ですので、今日の奨励題も、ここから取り、「主イエスから目を離さず」とさせていただいた次第です。
 では、目を離すな、と言うイエス様とはどんなお方か、それが、2節後半「このイエスは」に始まり「お座りになったのです」まで、に述べられています。 
 今月第1主日より「ウエストミンスター小教理問答」を告白してきておりますが、少し先になりますと、キリスト論に関する問答がございます。問27と問28、この2問の答えの部分と、2節後半の内容が重なります。この2問の問いの文言に、問27には「謙卑」、問28には「高挙」という語が用いられています。この2問には、キリストの謙卑と高挙が語られています。低くなられて私たちの罪を背負って十字架に架かられ、復活して天に昇られ私たちを救いに入れられた、そのイエス様。そのことが語られています。言ってみれば、キリスト・イエスを端的に、ひと言で、述べた箇所でありますし、更に言えば、キリスト教の要約中の要約と言っても過言ではないでしょう。ヘブライ12章2節は、まさにそうした1節です。
 ところで、2節の中の言葉で、問27,28には語られていないのが、冒頭で私が違和感を覚えたという「喜びを捨て」という部分です。先にも申しましたが、他の日本語訳では「喜びのゆえに」あるいは「喜びのために」とあります。因みに、最も新しい日本語訳であります聖書協会共同訳でも「喜びのゆえに」とされています。
 英訳聖書にも当たってみました。ネット上に、63種類の英訳聖書を検索できるサイトがありまして、それを用い、相当数の英訳聖書を確認しましたところ、「喜びを捨て」に近いニュアンスのものが確かにございました。ただ、私が確認できたのは、3つだけであります。
 果てさて、ヘブライ12章2節で最も私が引っ掛かった箇所であるこのところですので、奨励の時間のかなりの部分を取って語ってきておりますが、正反対ととれるこれらの訳でありますが、いくつかの講解書で確認しましたところ、どうやら原語からはどちらにも訳することができるとのことです。これが結論です。あっけない結論となります。
 ただどちらにもとれるからこそ、英語なり、日本語なり、他の言語に訳す際に様々な訳がなされることになるわけです。とは言え、圧倒的多数の訳は、私たちが用いています新共同訳とは異なり、「喜びのゆえに」あるいは「喜びのために」と訳されておりまして、それは、2節のその後に続いて述べられています、「十字架の死」、十字架の苦難こそが、イエス様の「喜び」であった、そのために、だからこそ、喜んで、十字架にお架かりになられた、その喜びのゆえに、十字架を耐え忍ばれた、そのように、解釈されているのであります。加えて申しますと、「御自身の前にある」というのは、その十字架の死がイエス様の喜びとして予め定められている、そういう意味に取れるということです。
 それに対して、新共同訳、また一部の英訳聖書では、「喜びを捨て」とあるのは、イエス様御自身は、全き神であられると同時に、全き人であられますから、人間としての目の前にある、人間的な喜びが当然置かれているわけで、その人間としての目の前にある喜びを捨てて、十字架の死を遂げられる、それも私たち罪ある人間のために…。 人としてのイエス様からすれば、また、私たち人間の目からすれば、「十字架」は人間の喜びではあり得ませんから、「喜びを捨て」てまで私たちの罪を背負って十字架に架かられた、との解釈がなされたと言えるのではないでしょうか。
 このように考えてきますと、人間イエス様に注目するならば、「喜びを捨て」の訳でよろしいのでしょうが、やはり、救い主イエス様に注目して、大多数の訳の通り、私は「喜びのゆえに」「喜びのために」との訳を取りたいと考えます。
 とにかく、ヘブライ人への手紙の著者は、気落ちしたユダヤ人キリスト者に対して、信仰の創始者また完成者であるイエス様から目を離さず、信仰の道を走り抜きなさい、と励ましている、この箇所はそのようにお取りできます。そして、それは、この私たち、今ここにいる私たちにも語られている、そうお聞きし、またお勧めしたい、それが今日の奨励の趣旨でございます。
 しかし、今少し語らせてください。「目を離さず」と言われても、なかなかできないよ、との言葉が聞こえてきそうです。皆様からではなく、私の心の内からです。イエス様から目を離し、風に気を取られて溺れそうになったペトロ。 まさにそのペトロのように、日常的に溺れかけているのが、実際でございます。
では、どうすればよいのでしょうか。そもそも、今は目に見えないお方であられるイエス様から目を離さずとは、どういうことか、どうすればよいのか、この点に更に触れなければならないでしょうか。
 そこで、その問いに関連して、先週の主の日午後にもちました各会の学びを紹介いたします。先週は、こんな学びをいたしました。各会は、今月から「ウェストミンスター信仰告白」の講解書からの学びを始めまして、先週は最初の最初でありまして、信仰告白の第一章「聖書について」、その第一節についての解説をご一緒に読み、分かち合いをいたしました。第一章の要約を、今日の奨励の内容と関連することにとどめて、お話ししますが、次のように申し上げられます。
 「聖書は、神様からの特別啓示を文書化したものであり、その頂点であり、中心にあるのは、イエスキリストである」
 先に私が掲げました疑問、「イエス様から目を離すな」それはどうすればよいか、それに対する答えは、イエスキリストが表わされた文書、それが聖書でありますから、聖書に親しみ、聖書から教えられ導かれる、これこそイエス様から目を離さないことだ、と言えるのではないでしょうか。
 今日、私たちは、ヘブライ人への手紙から、手紙の受け取り手であるユダヤ人キリスト者が、おびただしい証人の群れに囲まれていますが、でもその人たちが手に入れられなかった約束、その約束であるイエスキリストを与えられているではないですか、本当に幸いですよ、だから、そのイエス様から目を離さないで、信仰のレースを走り抜きましょう、そのように励まされた。このことを確認しました。
 それでも、その励ましを受けたユダヤ人キリスト者たちは、その時点ではまだ新約聖書、つまり、神様からの啓示の文書を得てはいなかったことに気付かされます。ですが、現代のこの私たちは、旧新約聖書を受け取っています。イエスキリストを表わした、神様の特別啓示である聖書を手にしています。何と幸いなことでしょうか。 
 ヘブライ人への手紙の受け取り手のユダヤ人キリスト者たちは、旧約のおびただしい証人たちより、完全なもの、祝福されたものだと語られ、励まされました。
だから、あなたたちはイエス様から目を離さないで、信仰の道を走り抜きなさい、と。ましてや、今の私たちは、そのヘブライ人への手紙の受け取り手よりも、更なる祝福を受けています。特別啓示である聖書が与えられていますから。ですから、そのことに、この幸いに、いよいよ感謝し、喜びを持ち、一層確信をもって、聖書を通して、聖書によって、イエス様から目を離さず、信仰の道を力強く、ご一緒に走り抜いていこうではありませんか。

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