あなたの足から履物を脱ぎなさい
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- 千禎鎬 牧師
- 聖書 ヨシュア記 5章1節~15節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨシュア記 5章1節~15節
ヨシュア記5章1-15節
あなたの足から履物を脱ぎなさい
讃美歌58、494
韓国にいた時も日本でも聖徒の方にこのような質問を受けたことがあります。“神様がなぜ、私を呼ばれたのでしょうか。神様はなぜ、私の人生をこのように導かれるのでしょうか。ただ、大きな祝福を与え、平坦な道に導き、楽に生きるようにしてくださればよかったのに、なぜこのように大変な思いをするのだろうか。” イエス・キリストを信じてからこの世で生きることがとても大変だという事です。神様の御前で私の人生は、一体何かという質問です。困難を覚えているという事だけではなく、生きる力がないと言います。
イスラエルの民がそうでした。“なぜ、神様はエジプトから私たちを救い出されたのか。なぜ、カナンの地へ入らせてくださるのか。最初からカナンの地に住まわせてくださったらよかったのに…、空いた土地にでも導いてくだされば、良かったのに…なぜ、このように苦難を与え、荒れ野の生活をさせ、カナンの地を征服する戦いをさせるのか。”と質問をしたかもしれません。
神様は、なぜそのようにされたのでしょうか。なぜなら、私たちはもう世に属している人ではないからです。私たちが出エジプト記とヨシュア記を必ず、学ばなければならない理由があります。それは、私たちがイエス・キリストを信じた瞬間、イスラエルの民が経験したことが私たちにも起こるからです。私たちは、イスラエルの民がエジプトから離れたように私たちが今過ごしている生活から離れるようになります。私たちは、イスラエルの民が神様の導きによってヨルダン川を渡ったように、神様が導いてくださる霊的なヨルダン川を渡らなければならないからです。しかし、私たちは、どのようにしてヨルダン川を渡らなければならないのかをわかりません。しかし、私たちが覚えなければならないのは、神様が私たちの道を開いてくださり、そなえてくださるということです。
皆様。イスラエルの民は、自分たちの行く道を防(ふせ)いでいるヨルダン川を見ながらもどかしかったでしょう。彼らは、カナンの地に足を踏むことができる方法がありませんでした。しかし、彼らが神様の御言葉通りに契約の箱を前に立てて川に入ると川の流れが壁のようになり、彼らは川を渡る事になったのです。ヨシュアは、イスラエルの民に契約の箱を担いだ祭司たちが足を置いた場所から石を拾わせ、彼らの野営(やえい)する場所に立てるように命令しました。なぜなら、神様はイスラエルの民がこれからも続けて、この信仰によって進むことを願われたからです。
今日の御言葉を見ますと、神様は、すべてのイスラエルの民の男性に割礼を行うことをお命じになりました。割礼を受けるならば、しばらくの間、動くことができません。神様は、イスラエルの民にこれをお命じになったのです。言い換えれば、ヨルダン川を渡ったイスラエルの民にまず、神様の御手に自分たちの命を任せなさいということです。神様は、イスラエルの民がカナンの地に入ってから早く定着することや早く成功することより、神様の御言葉に徹底的に従順する民となる事を願われました。神様が願われたのは、死をかける従順です。人からどのような事を言われても神様の御言葉ならば、神様の御言葉に優先順位を置き、死ぬ覚悟をしなさいということです。そうすると、この世で、最後まで信仰によって歩むことができるからです。
1節を見てください。イスラエルの民がヨルダン川を渡る時、神様の力によって安全に川を渡ったという事をカナンの王たちがすでに聞いて、心がくじけ、もはやイスラエルの人々に立ち向かおうとする者はないと書いてあります。“心がくじけ”という意味は、カナンの王や民が驚きと恐れで、気を失ってしまったという事です。カナンの王たちは、イスラエルの民がヨルダン川を渡れないだろうと思いましたが、神様の力によってとても簡単に渡ると、カナンの地もそのように占領されると恐れてしまったのです。
私たちも悟らなければならないことは、今も世の人々は教会で起こる事と聖徒たちが行っていることについて多くの関心があるということです。世の人々は、私たちを通して神様の大きな力と奇跡が起こる事を一番恐れています。その時、世の人々は、気を失ってしまうでしょう。サタンは、できるだけ私たち聖徒らが自分の問題に落ち込んでしまうようにし、信仰によって生きることができないようにします。その時、私たちは神様の恵みを受け、聖霊にみたされ信仰によって生きなければなりません。神様が私たちの力となるからです。神様の民が御言葉に従い、信仰によって生きようとする時、世の人々は、神様の民を恐れます。そして、教会に多くの関心持ちます。
2節を見てください。神様はヨシュアに火打ち石の刃物(はもの)を作り、もう一度イスラエルの民に割礼を施(ほどこ)すようにお命じになります。なぜ、神様は割礼を施すようにお命じになったのでしょうか。ヨシュアとイスラエルの民は、割礼を受けることを嫌がったかもしれません。なぜなら、今のイスラエルの民は、今まで割礼を受けずとも生きて来たし、カナンの部族との戦いの前、割礼を受けることは、危ないからです。しかし、なぜ、神様は今、割礼を施すようにお命じになったのでしょうか。その理由は、イスラエルの民に、命をかけるほどの従順を願われたからです。カナンの地を征服することは、自分たちの力ではなく、すべてが神様の知恵と力だという事を知らせると同時にそのことを信じるのかとイスラエルの民に聞かれているのです。すなわち、神様の御言葉に100%従順することを願っておられたのです。
4-5節を見てください。ヨシュアが割礼を施した理由について書いてあります。
エジプトから出たイスラエルの民は、神様の多くの奇跡を経験した世代です。また、彼らはその時代、最大の文明国だったエジプトの文明と学問を経験した民です。今日の箇所に出る荒れ野の世代と違います。しかし、彼らは神様の御前で高慢になり、一人も約束の地に入る事ができないと神様に言われたのです。そして、彼らが皆死ぬまで、荒れ野で40年間迷い過ごすことになりました。
驚くことは、エジプト文明の経験も、また割礼も受けた人たちは、神様の御言葉に従いませんでしたが、エジプト文明の経験も、また割礼も受けてない人たちは、神様の御言葉に従順したのです。神様の御言葉に従順する人が神様に選ばれた本当のイスラエルの民であります。それで、神様は高慢な世代が皆亡くなるまで40年間を待っておられたのです。
神学的な意味で割礼というは、神様の印を体に刻むという意味です。ですので、イスラエルの民は、割礼を通して永遠に消えない神様の民たという印を体に印す事になりました。割礼の霊的な意味は、腐敗した体と人間の罪の本姓を断ち切るという意味です。昔、男性の生殖器(せいしょくき)を清潔ではないと考えました。割礼を受けるならば、表皮(ひょうひ)のけがれが無くなるようにイスラエルの民が、割礼を受けて心の中のけがれた罪を切り離すという意味を付与(ふよ)したのです。しかし、形式的に割礼を受けたのか、受けてなかったのか、またエジプトの多くのことを経験したのかそうでなかったのかは、重要ではありません。神様の御前で自分の高慢と腐敗した罪の本姓を切り離した信仰を持っているのかが大切です。荒れ野で生まれた世代は、ある意味で神様の御前で、羊のようでした。彼らは、不平不満の声も出さず、神様の命令通りに割礼を受けました。
8-9節を見てください。「民は全員割礼を受けた後、その傷(きず)がいえるまで、宿営(しゅくえい)内の自分の場所にとどまった。主はヨシュアに言われた。『今日、私はあなたたちから、エジプトでの恥を取り除いた(ガラ)。』そのために、その場所の名はギルガルと呼ばれ、今日(こんにち)に至っている。」
“エジプトでの恥を取り除いた”という意味は、どいう事でしょうか。イスラエルの民は、体はエジプトから離れましたが、心は、なおも、エジプトの奴隷だったということです。残念ながら、今の時代、教会の中にも長い間、イエス・キリストを信じてきましたが、まだ世の価値観、世の世界観など、未信者のような生活をしている人が多いです。
本当のイスラエルの民となる日は、いつなのでしょうか。すべてを理解できなくても、神様のみことばならば、不平不満せずに服従する時です。“ギルガル”という言葉は、物が転(ころ)がる声から出る擬声語(ぎせいご)だそうです。イスラエルの民にとって、エジプトの恥がほぼほぼなくなるということではなく、自分と他人がはっきりと感じるように確実になくなったということです。
10-12節をみますと、イスラエルの民がカナンの地に足を踏んだ時は、時期的に過ぎ越し際の時でした。この時は、土地の産物を、酵母(こうぼ)を入れないパンや炒り麦にして食べました。この時は、マナが降りませんでした。この意味は、イスラエルの民が、再び荒れ野へ戻る必要がないという意味です。また、神様がこれからイスラエルの民に食べ物を供給する方法を変えるという意味です。私たち聖徒らは、様々な苦難を受ける時があります。なければ一番良いですが、これらは霊的にもっと神様に頼るための訓練となる時があります。私たちは、物質的な余裕があってもなくても同じような心を持って神様に頼り、従わなければなりません。イスラエルの民が、カナンの地で色々な穀物(こくもつ)を食べながらも心はいつも荒れ野でマナを食べた日々を心に刻み、神様の助けに頼り生きるべきです。そうすると、堕落せず、生きることができます。
13節を見ますと、ヨシュアは、剣を手にした一人の男と遭遇(そうぐう)します。
もし、私がそこにいたとすれば、一度も出会ったこともないその男を敵だと思ったかもしれません。しかし、ヨシュアは、その男がとても善良で、勇猛(ゆうもう)に見えたので、カナンの将軍ではないと思ったようです。13節の後半部分を見ますと、“あなたは味方(みかた)か、それとも敵か”と問いかけます。すると、彼は答えます。14節です。「私は、主の軍の将軍である。」と言います。すると、ヨシュアは、地にひれ伏して拝(はい)し、かれに「わが主は、このしもべに何をお言いつけになるのですか。」と言いました。彼は、自分はどちらの味方(みかた)でもなく、「私は、主の軍の将軍である。」と言います。神様の天使たちを指揮(しき)する総責任者だったのです。ある人は、このように質問します。神様は、味方ですか、それとも敵の味方ですか。このような質問は、正しくありません。私たちが神様の側に立つべきです。神様を私たちの側に立てようとしてはなりません。神様は、言葉だけではなく、実際に神様の軍の将軍と軍隊を送ってくださるという意味です。
神様がお働きをなさる時があります。私たちは、このことを忘れてはなりません。今私たちに、神様が何かをしてくださればと考えますが、神様の時が満ちていないと何もできません。神様の時が満ちると、必ず、神様はお働きになります。イスラエルの民にやっと神様の命令が与えられたのです。このように神様の働きをする時は、神様の時がどれくらい重要なのか、悟るようになります。
ヨシュアは、指導者としてしなければならないことは、作戦や戦略を立てることではありません。彼が先にすることは、神様に従い、神様の御前で履物(はきもの)を脱(ぬ)ぎ、神様の命令に服従することです。
15節に「あなたの立っている場所は聖なる所である。」と書いてあります。
私たちが神様に出合う所は聖なる所であります。そこで私たちは、履物を脱がなければなりません。ヨシュアは、主の軍の将軍に従わなければなりません。従うならば、カナンの地を征服することができるからです。私たちは、この世で成功した人生を生きるためにしなければならないことは、神様の御前で謙遜に、履物を脱ぐことです。どのようにして神様に従うことができるのでしょうか。すべてのことの前に、神様の御言葉に優先順位を置くことです。また、自分の意志や高慢の履物を脱ぐことです。私たちは、神様の子供でもありますが、神様の僕でもあります。ですので、神様の命令であれば、必ず、従わなければなりません。神様が行きなさいと言われるならば、行き、戦いなさいと言われるならば、戦わなければなりません。そうすると、神様の知恵と力によって霊的なカナンの地を征服することができます。お祈りします。