主を敬うために記念しなさい
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- 説教
- 千禎鎬 牧師
- 聖書 ヨシュア記 4章1節~24節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ヨシュア記 4章1節~24節
ヨシュア4章1-24節
主を敬うために記念しなさい
讃美歌12、534
私たちには、それぞれの信仰の記念をする出来事があるでしょう。熱い主の愛を感じ、主に出会う時であり、切なる祈りが成し遂げられた時かもしれません。また、どうすればよいのか全く分からず、絶望に陥った人生の危機から助けてくださった神様の素晴らしい出来事があるでしょう。人生においてこのような出来事は、記念となり、何度も思い出し、感謝をします。特にこのような出来事を子供や孫たちに伝え、記念するようにすれば、もっと意味があるものになるでしょう。神様は私たちを救われ、恵みを与えてくださったことを、私たちだけに留まらず、多くの人にもその恵みが流れることを願います。それが証です。信仰の遺産となります。この信仰の遺産を家族や子孫に伝えるようにしましょう。
神様はご自分の力によって溢れ流されるヨルダン川の水を壁のように立つようにしてくださいました。この時期は、春の刈り入れの時期だったので、川の水は堤(つつみ)を超えんばかりに満ちいていました。それにもかかわらず、イスラエルの民は、干上(ひあ)がった川床(どこ)を安全に渡れるようになったのです。神様がしてくださった特別な出来事でした。今日の御言葉は、この神様の出来事を記念しなさいと教えます。なぜ、そのように言われたのか。聖書を通して学びましょう。
1-3節を見てください。神様はヨシュアに言われます。部族ごとに一人ずつ、計12人を選び出し、彼らをヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を置いた場所から、石を12個拾わせます。5節を見ますと、12部族の数に合わせて、石を一人ずつ肩に担いで来いと書いてあることを見ますと、この石は小さなものではありません。肩に担ぐほど、大きな石です。
この12個の石を拾うようにした理由は何でしょうか。6節に書いてあります。「それはあなたたちの間でしるしとなるであろう。」 すなわち、「証拠」となるという意味です。神様の導き、力によってイスラエルの民が干上(ひあ)がったヨルダン川を渡ったという歴史的な「証拠物」となるという事です。この石は、干上(ひあ)がったヨルダン川から持って来た石なのです。石は、神様が行われた大きな事を記念する記念碑(ひ)となりました。いつも心に留めて、覚えてその記憶を現実化して生きなさいということです。神様が行われた大きな事、大きな恵みのことを現代を生きる生活の根拠としなさいと教えています。神様が行われた事全てに基づいて生きなければならないという事です。
6節をもう一度見てください。「後日(ごじつ)、あなたたちの子供が」と書いてあります。つまり、この石は、子供たちに信仰の教育をさせる大切な資料となるということです。子供たちがこの石は、何を意味するのですかと尋ねる時には、7節を見ますと、「ヨルダン川の流れは、主の契約の箱の前でせき止められた。箱がヨルダン川を渡る時、ヨルダン川の流れは、せき止められた。これらの石は、永久にイスラエルの人々の記念となる」と答えなさいと書いてあります。これらの石は、永久にイスラエルの人々の記念碑(きねんひ)の役割をするのです。皆様は、何かを記念する記念品があるでしょう。それらを見ながら何を思いますか。大切な思い出、また事件、色々な事を思い出し、記念します。また子供たちや子孫にそれらをゆずりわたします。それらを見た子供たちや子孫は、親の話を信じ、それらを忘れず、覚えて記念します。
イスラエルの子供たちは、神様が行われたこと、また神様が彼らをカナンの地に入るようにしてくださった目的を覚え、神様の御心を果たさなければなりません。後になって、イスラエルの子孫が再びヨルダン川を同じように渡ることができるのではありません。誰も同じようにしなさいとは言いません。また、同じようにしようとしてもできません。葦の海を渡ったことも同じです。イスラエルの民に再び、経験するようには言いません。また再び、エジプトの奴隷として行かすことはしせません。葦の海の出来事も神様の特別な出来事としてたった一度だけです。葦の海とヨルダン川を渡ったことは、過去の特別な出来事になったのです。しかし、その事を行われた神様を忘れてはなりません。神様は、永遠で変わらない全知全能の神様だからです。今、私たちがイエス・キリストの中で信じている神様がその神様であります。葦の海とヨルダン川を渡るようにしてくださった神様、今の時代にも生きておられ、私たちと共にいてくださり、新しい経験をするように恵みを与えてくださいます。歴史は、進行します。しかし、神様はその歴史の中ですべてをなさり、昔も今も同じ生きておられる神様です。
神様は、この記念の石を通して神様ご自身がどのようなお方なのかを深く
悟り、またはっきり信じるように、さらにその時経験していたイスラエルの民のように神様に仕えるように願っておられます。再び、葦の海とヨルダン川を渡りなさいという事ではなく、そのすばらしい出来事を覚え、与えられた使命を忠実に果たしなさいという事です。
今日の御言葉を見ますと、記念碑(きねんひ)は、二つのところに立てられます。一つ目は、9節を見ますと、契約の箱を担(かつ)いだ祭司たちが川の真ん中で足をとどめた跡(あと)に立てました。二つ目は、3節を見ますと、夜、野営(やえい)する場所でした。20節を見ますと、ここはギルガルです。
神様は、素晴らしい事をなさった神様ご自身を記憶するようにしました。神様の恵みの出来事、神様の特別な出来事を覚え、神様に忠実に仕えなさいという意味です。
イスラエルの民は、カナンの地に入ってから神様を忘れてはなりませんでした。なぜ、神様がこのような素晴らしい恵みの事を行われながら自分たちをカナンの地に入らせてくださったのか。自分たちに対する神様の目的は何なのか。これらのことを忘れてはならないという深い意味があるのです。イスラエルの民は、これらの石を見ながら神様がなぜ自分たちにこのような大きな出来事を見るようにしてくださり、自分たちがカナンの地で生きるようにしてくださったのかを絶対に忘れてはなりません。彼らはカナンの地に入り、生きる歴史となる使命があります。記念碑(きねんひ)は、過去の出来事を記念しますが、現在的な意味も持っています。なぜ、神様は、彼らがカナンの地に入るような記念的なことを行われたのかという意味を考えるようにします。
私たちは、聖餐式を通してイエスキリストを記念します。聖餐式を行いながら主の十字架の死をおぼえます。すでに信じる民にこれを覚えるようにする理由はなんでしょうか。神様は、なぜ、救いの恵みを与え、またなぜ、今の時代にこの世に存在し、歴史的な使命を与えてくださったのでしょうか。神様の救いの恵みが無駄にならないようにするためです。私たちは、主が与えてくださった使命を果たすためにこの世に生きている信仰の共同体として互いに支え、仕えなければなりません。教会は、神様の恵みによって立てられた共同体であり、神様の御国のために立てられた共同体でもあります。
19―20節を見ますと、第一の月の十日に、民はヨルダン川から上がって、エリコの町の東の境(さかい)にあるギルガルに宿営し、石をギルガルに立てます。
21節と22節に再び、神様は、ヨシュアを通してイスラエルの民にこのように言われます。「子供たちに、イスラエルはヨルダン川の乾いたところを渡ったのだと教えねばならない。」 記念の石を通して子孫に信仰の教育をしなさいということです。親たちに与えられた大切な使命であり、責任でもあります。
信仰の継承です。これは、イスラエルの民だけではなく、24節を見ますと、「地上のすべての民」のためです。私たち善通寺教会の皆もこの今日の教訓を受けなければなりません。信仰の継承は、神様の命令です。軽んじてはなりません。
私たちは、どんな教訓を与えられ、どのように神様に仕えなければならないのでしょうか。24節をもう一度見てください。「それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためである。」 私たちは、神様の出来事を通して神様の御手が力強いこと、また神様は、全ての世界を治める力あるお方だという事を悟り、信じなければなりません。
イスラエルの民は力ある神様の御手に頼り生きなければなりません。そして、まもなく、カナンの地に入ります。しかし、そこには多くの戦いが待っているのです。しかし、この戦いも力強い神様を固く信じ、頼りながら神様から与えられた使命を果たしなさいという御言葉です。
また、私たちはいつも生きておられる神様を敬(うやま)わなければなりません。
神様を正しく知っているならば、神様を敬います。イスラエルの民は、神様が自分たちをヨルダン川を渡るようにしてくださったこの歴史的な出来事を本当に信じるならば、当然神様を敬わなければなりません。
この24節の御言葉は、信仰の親と信仰の先輩たちに重要な責任を与えます。神様を敬うように神様について子供たちや子孫に正しく教えなければなりません。この教えの方法の一つが、記念することです。信仰の継承のために記念することです。親も教会もこの責任があります。神様から与えられた使命です。神様を信じる人ならば、皆この責任があります。神様がどのようなお方なのかを教えること、また神様を敬うようにする事を家庭と教会で最善を尽くすべきです。
今日の御言葉を見ますと、続けて‛契約の箱’について書いてあります。この前も言いましたが、契約の箱というのは、神様が共にいてくださるという印です。全てを治める全知全能の神様がイスラエルの民と共にいてくださり、導いてくださるということを視覚的に見せてくれる役割をします。10節を見ますと、契約の箱を担(かつ)いだ祭司たちが民全体が渡るまで川の真ん中に立ち止まっていました。18節に、契約の箱を担(かつ)いだ祭司たちが川から上がり、彼らの足の裏が渇(かわ)いた土を踏んだ時、川の流れは元通(もとどお)りになりました。神様は、この出来事を通して神様の力と導きについてはっきり表してくださいました。このようにして14節を見ますと、神様は、全イスラエルの見ている前で、ヨシュアを大いなる者とされました。なぜでしょうか。彼らがモーセを敬ったようにヨシュアも敬うためです。この事を通してヨシュアは神様が立てられた僕であり、ヨシュアに従うことこそ、神様に従うことだということを悟らせます。ヨシュアを信頼し、従うこと、これがヨルダン川を渡るようにしてくださった神様に従順する道であり、神様を敬う道だという事を教えます。
今日の御言葉を通して分かることは、まず、神様はイスラエルの12部族が力を合わせてカナンの地を征服していくことを願われるということです。今の時代、教会共同体も同じです。もちろん、各自の賜物と個性(こせい)は、尊重されるべきですが、信仰の目標のために協力と一つとなるという姿勢が必要です。
また、今日の御言葉を通して分かることは、神様は信仰の継承を願っておられることです。神様がどのようなお方なのか。また神様の偉大な出来事と導きを子供たちや子孫に教えることを願われます。信仰の家庭と教会が次世代(じせだい)の信仰教育に力を注ぐ理由です。
また、今日の御言葉を通して分かることは、神様は約束を必ず守ってくださるということです。なぜでしょう。神様は愛だからです。神様は私たちを救ってくださり、一番良い道に導いてくださいます。これは神様の愛であり、恵みです。この愛の神様をはっきり信じ、置かれている環境の中で、与えられた使命を果たし、神様に忠実に従いましょう。神様がいつも私たちと共にいてくださり、霊的なカナンの地に導いてくださいます。お祈りします。