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2026年04月05日「絶望の道で希望に出会う」

絶望の道で希望に出会う

日付
説教
千禎鎬 牧師
聖書
ルカによる福音書 24章13節~35節

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日本聖書協会『聖書 新共同訳』
ルカによる福音書 24章13節~35節

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今日は、主イエス・キリストが十字架の上で死なれてから三日目に復活されたイースターです。イースターは、イエス様が私たちを救うためにご自分を低くしてこの世に来られたクリスマスと並び、とても大切な教会の祭りです。どちらがより重要かを決めることはできませんが、ある人は復活祭、すなわちイースターこそ教会の最も大切な祭りであると言います。皆様はどう思われますか。
イースターは、単に「良いことがあった」という記念日ではありません。聖書は、イエス様が実際に死なれ、実際に復活されたことを教えています。そして、その出来事が私たちの生活と深く結びついていることを示しています。私たち皆が、復活の喜びを共に味わいながら生きることを願います。

今日の御言葉は、エマオという村へ向かう二人の弟子の物語です。この御言葉は、単なる「イエス様と弟子たちの出会いの話」ではありません。深い挫折と絶望の中にある人が、どのようにして復活の希望によって回復されるのかを示す希望の御言葉です。
13節を見ると、二人の弟子はエルサレムを離れてエマオという村へ向かっていました。ここで私たちが考えるべきことは、「場所の移動」ではなく「方向」です。エルサレムは、イエス様の十字架の死と復活の出来事が起こった場所です。しかし彼らは、その場所を離れていきました。なぜ離れたのでしょうか。

彼らの告白からその理由が分かります。21節前半を見てください。
「私たちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」ここで「望みをかけていました」と書いてあります。これは過去形です。すでに希望が終わったという意味です。つまり彼らは、イエス様を誤って理解していました。彼らはイエス様を政治的な救い主、目に見える解決を与える方として期待していました。しかし、イエス様の十字架の死はその期待を打ち砕きました。そのため彼らは、イエス様の復活の知らせを聞いても信じることができませんでした。これが弱い私たち人間の姿です。私たちは事実ではなく、「自分の期待に合うかどうか」で判断してしまうのです。

15~16節を見ると、イエス様が彼らに近づき、一緒に歩き始められます。ここで重要な表現があります。16節です。「しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」なぜ二人はイエス様が分からなかったのでしょうか。それは単なる視力の問題ではなく、霊的な目が閉ざされていたからです。さらに彼らは悲しみと自分の思いにとらわれていました。そのため、イエス様がそばにおられても気づくことができなかったのです。しかし、ここで最も重要なことは、彼らがイエス様に近づいたのではなく、イエス様が先に彼らに近づいてくださったということです。イエス様は、絶望にある人をそのまま放置されることはありません。

25~27節を見ると、イエス様は御言葉を通して彼らの疑問を解き明かされます。25節です。「そこでイエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち』」と書いてあります。
ここでイエス様は、知識不足ではなく、御言葉を信じない心こそが問題であると指摘されました。そしてモーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明されました。
これは非常に重要です。イエス様は先に奇跡を見せることも、ご自身をすぐに明かすこともなさいませんでした。なぜなら、復活は御言葉を通して理解されるべきものだからです。イエス様の十字架は失敗ではなく、すでに聖書に示されていた神様のご計画でした。つまり弟子たちの問題は状況ではなく、御言葉である聖書を正しく理解できなかったことにあったのです。

30~31節を見ると、イエス様は弟子たちと食事をされます。パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになると、二人の目が開かれ、イエス様だと分かりました。ここで重要なのは、御言葉とパンを通して目が開かれたということです。これは単なる食事ではなく、イエス様との交わりの中で起こった出来事です。そしてそれを悟った瞬間、イエス様の姿は見えなくなりました。なぜでしょうか。それは、これからは目で見るのではなく、御言葉によって信じる段階に入ったからです。

32~35節では、弟子たちの変化が描かれています。32節後半です。「私たちの心は燃えていたではないか」さらに33節では、彼らはエルサレムに戻りました。彼らの大きな変化は「方向」が変わったことです。エマオではなく、エルサレムへと向かいました。そして、彼らの心も変わりました。彼らは、絶望から確信へと変えられました。また、人生も変わりました。逃げる人生から、復活を宣べ伝える人生へと変えられました。状況は変わらなくても、復活の主に出会うことで人生は完全に変わることができたのです。

皆様。
今日の御言葉は、昔の話ではありません。私たちの物語でもあります。私たちはしばしばエマオの道を歩みます。自分の期待が崩れたとき、神様から遠く離れたと感じるとき、祈っても答えがないと感じるとき、私たちは自分のエマオへ向かってしまいます。しかし今日の御言葉ははっきり教えます。そのような道にあっても、復活の主は共におられます。ただ私たちが気づいていないだけなのです。
重要なのはこれです。問題は環境ではなく、神様の御言葉をどのように理解するかです。同じ状況でも御言葉によって見るなら、そこに希望が見えてきます。ですから私たちは、復活の約束の御言葉に頼らなければなりません。

ヨハネ11章25節に「わたしは復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる」、ローマの信徒への手紙8章11節「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなた方の内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によってあなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」、さらにペトロの手紙一1章3節に「神は豊かな憐れみによって、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」と書いてあります。これらの御言葉は単なる慰めではなく、今を生きる私たちへの神様の力ある約束です。

皆様。
エマオへ向かっていた弟子たちは、状況が変わったから希望を持ったのではありません。復活の主に出会ったから希望を持ったのです。
真っ暗な夜道を想像してください。何も見えず恐ろしいです。しかし遠くに一つの小さな光が見えるなら、その光によって進むことができます。主の復活はその光です。

イエス様の復活は私たちに教えます。一つ目は、死は終わりではないことです。
二つ目は、神様は約束を必ず守られることです。三つ目は、私たちは一人ではないことです。
復活された主は、今も生きておられ、私たちと共におられます。それで私たちは復活の希望をもって生きることができるのです。
もし今、二人の弟子のようにエマオの道を歩んでいる方がおられるなら、その道は終わりではありません。
復活の主はすでに共に歩んでおられます。
この希望が私たちの生活に現れますように願います。

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