一人ひとりの賜物が生きる教会へ
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- 説教
- 千禎鎬 牧師
- 聖書 コリントの信徒への手紙一 12章4節~7節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 12章4節~7節
公演会場でも観覧したことがありますが、たまにテレビで放送するオーケストラを見ることがあります。すべての楽器は、指揮者の指揮に従って自分が担当している楽器を美しく演奏をします。大切なことは、そのすべて音が重なり合うならば、すばらしい演奏となります。
一人が上手にできるからといい大きな音を出しながら演奏しても良いものにはならず、また、一人でも自分勝手に演奏を止めてもなりません。
指揮者の指揮に従って、それぞれの楽器の音を出し、それぞれ必要なパートがしっかり演奏をするならば、すばらしいオーケストラの演奏となり、聴衆に大きな感動を与えるのです。このようにすべての共同体もそのように立てられるならば、健全な共同体となり、有益な共同体になります。
特に、教会の頭である主の教会がそのような共同体とならなければなりません。教会の中には、色々な人がいます。
男性と女性、また子供と大人、そして、お金持ちと貧しい人など。様々な人が集まっています。しかし、本当に驚くべきことは、神様がこのようなすべての人々にそれぞれの賜物を与えてくださったということです。人もそれぞれ違うように、賜物もそれぞれ違います。その賜物と人々が調和を成す時、教会の頭である主が喜ばれる教会が立てられ、神様の栄光を表すことができるのです。
今日、私たちが考えようとするコリントの信徒への手紙一12章は、霊的な賜物について教えます。大切なのは、それぞれに与えられたその霊的な賜物を必要な所に使う時教会を教会らしく立てることができるということです。
先ほども言いましたが、どんなに素晴らしい演奏者だとしても指揮者に従わず、自分勝手に演奏をするならば、そのオーケストラは、不和音になってしまい、聴衆に感動を与えられません。教会も同じです。
皆が三位一体の神様の御心に従って私たちに与えられたそれぞれの賜物を持って教会を立てなければなりません。主が喜ばれる教会、神様が願っておられる教会を作るのです。コリント教会の姿を見ながら今、私たち教会がしなければならない正しいことを悟り、それを実践することを願います。
聖徒の皆様。
恵みと賜物があります。この二つは、私たちの信仰生活においてとても大切で、神様が私たちに与えてくださった素晴らしいプレゼントです。しかし、この二つには違いがあります。何だと思われますでしょうか。
まず、恵みについて考えましょう。恵みというのは、ヘブライ語で[へん] (חֵן)、ギリシャ語で[カリス] (χάρις)だと言います。
これらの言葉の主な意味は、[代価を払わず、与えられるプレゼント、また愛]という意味です。すなわち、代価を払っていないとしても神様が与えてくださった神様の愛だということです。私たちキリスト者は、代価も払わず、何の資格もありませんが、神様は御子イエスキリストを通して私たちに救いの恵み、プレゼントを与えてくださいました。
ローマの信徒への手紙3章24節に[ただ、キリスト·イエスによって贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです]と書いてあります。私たちが救われたのは、私たちの行為と努力ではなく、ただ、神様の全ての恵みがあったからです。
この恵みは、私たちを完全に変えられ、新しくし、神様との関係を回復させます。私たちキリスト者は、この恵みの中で自由となり、本当の平和を享受することになったのです。
それでは賜物とは何でしょうか。
賜物はギリシャ語で[カリスマ](χάρισμα)だと言います。
この言葉は、恵みという意味をする[カリス] (χάρις)から派生した言葉として[神様の恵みによって与えられた特別な能力、また才能、タレント]を意味します。すなわち、仕えるために神様から与えられた神様の力です。今日の箇所である12章4-7にこのように書いてあります。
[賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは、同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは、同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。一人一人に‛霊’の働きが現れるのは、全体の有益となるためです]
神様は、私たちキリスト者が救われた後に聖霊を通してそれぞれの人に多様な賜物を与えてくださいます。この賜物は、単純に個人の霊的な満足のためではなく、教会を立てるため、また福音伝道と隣人に仕えるために与えてくださったのです。
ある人には知恵の言葉、ある人には知識の言葉が与えられます。またある人には信仰、ある人には病気を癒す力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力など。多様な賜物が与えられるのです。
このすべての賜物は霊によってそれぞれの人に与えられます。大切なのは、私たちがどのような賜物を与えられてもその賜物を与えてくださった神様に感謝し、謙遜な心を持ってキリストの体である教会に仕え、神様の栄光を表さなければなりません。
聖徒の皆様。私たちは神様の恵みによって救われ、その恵みの中で生きています。また聖霊によって与えられた賜物を通して神様のお働きを果たしています。恵みというのは、私たちを救う基盤となり、賜物というのは、救われた私たちが世の中で神様を表し、主の教会に仕えるために与えられた神様の力です。ここで私たちが忘れてはならないことは、この恵みと賜物を分けて考えてはなりません。恵みがなければ、賜物はありません。また賜物がなければ、満ち溢れる恵みはありません。私たちは、与えられた恵みに感謝し、その恵みと共に聖霊によって与えられた賜物を積極的に使わなければなりません。恵みと賜物の調和を成す人生を生きなければなりません。
もし、[私はどのような賜物を与えられたのか] と思う方がいらっしゃいませんか。もし、[私は賜物がないような気がする]と思う方がいらっしゃるかもしれません。落胆しないでください。神様は聖徒の皆様にそれぞれ違う賜物を与えてくださいました。他の人ができないこと、またほかの人にはない才能や力があるならば、それこそ神様が与えてくださった賜物です。それらをよく考えてみてください。その賜物を通して教会共同体に仕え、隣人に仕えるのならば、その賜物はもっと明らかになり、また成長し、霊的な喜びが溢れると信じます。さらに神様が必ず喜んでくださいます。
しかし、パウロはコリントの信徒への手紙一13章で、どんなに素晴らしい賜物を与えられても愛がなければ何にもならないと強調しています。恵みと賜物はすべて神様の愛から与えられたものだからです。私たちはその神様の愛を持って賜物を使わなければなりません。パウロはこのことを結論的に語っているのです。
賜物は、神様が神様の御心によってプレゼントとして必要な人に与えてくださいました。賜物は色々ありますが、すべてを神様が与えてくださり、神様の栄光のために使わなければなりません。また自分だけではなく、共同体全体の益とならなければなりません。そうでなければ、どんなに素晴らしいものだとしてもその賜物は、神様から与えられたのではありません。
私たちは賜物を願い求めながらその賜物を通して神様の御国を広げる聖徒とならなければなりません。
お一人お一人、良い賜物を神様から与えられたと思います。その大事な賜物を自分の益だけのためではなく、また世の中だけに仕えることではなく、その賜物を通して神様の栄光のために、兄弟姉妹のために、さらに教会を立てるために仕えるべきです。
神様はそのように仕えるために大事な賜物を与えてくださったのです。
このように仕えることこそ、私たちの善通寺教会を立てることになり、また私たちをお呼びになってくださった神様の御心に適うことになります。
2026年、新しい年を迎えた私たちは、この御言葉を覚え、また[一人ひとりの賜物が生きる教会へ]という教会標語のように今年も神様の愛を持って実践し、神様が喜ばれる日々を生きていきましょう。
