ひたすら主に仕えさせるために
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- 千禎鎬 牧師
- 聖書 コリントの信徒への手紙一 7章25節~40節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 7章25節~40節
前回、7章1-16節まで結婚について学びました。
今日は、未婚の人たちとやもめに勧めている内容です。
コリントの聖徒たちが、パウロに未婚の人たちとやもめの結婚問題について答えを求めたようです。
当時、娘の結婚の決定は、両親にあったそうです。
まだ、結婚をしていない娘がいる両親は、どのような決定をすれば良いのか、どのようにするのが主の御心なのかという事がよく分からなかったので、パウロに聞いたそうです。
このような彼らの質問についてパウロは、このように言います。
25節を見てください。[未婚の人たちについて、私は主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます] パウロは、これに対してイエス様から教えられたことも、特に神様から与えられた啓示がなかったので、パウロ自身の意見を言っています。
パウロは、意見を言う前に[主の憐れみにより信任を得ている者]と言います。自分の使徒の職分を言うそうです。
ローマの信徒への手紙1章5節に[恵みを受けて使徒とされました] 使徒とされたことについて主の恵みがあったと強調しています。
パウロはいつも主の恵みを強調します。
救いに関しても、すべてのことも主の恵み、特に自分が使徒とされたことも主の恵みだと言いながら忠実に与えられた使命を果たすと言います。
ですので、パウロは今、自分の意見を言いますが、まるで主の御心を伝えるように慎重に進めているように見えます。
パウロは、26節を通して未婚の人たちに自分の考えを言います。
[今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいと私は考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです]
パウロは、[今危機が迫っている状況にあるので]と言いながら[私は考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです]と言います。
[今危機が迫っている状況にあるので]と書いてありますが、具体的にどんな状況なのかは分かりません。
その当時、コリントの教会が置かれている状況と関係があるでしょう。
ローマ帝国の迫害と関係があるかもしれません。正確には分かりませんが、このような状況なので、パウロは結婚をしなくてその状況にとどまっているのがよいと勧めます。
また、27節にこのように言います。
[妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない] どのような意味でしょうか。
すでに結婚をしているならば、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら、結婚をしてはいけないという事です。
28節を見ますと、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではないと言います。
ただ、[今危機が迫っている状況にあるので]このようにしなさいという勧めです。
以前学びましたが、一人で住むためには節制をしなければなりません。
とにかく、結婚しても、しなくてもそれは、罪ではありません。
パウロは、その当時、自分の目で見た時、[今危機が迫っている状況にあるので]そのまま、一人で過ごすことが良いと言ったのです。
イエスキリストが、再び来られるならば、この世は終わりますが、このような世で私たちキリスト者はどのように生きたらよいのでしょうか。
これに対してパウロは続いて勧めています。
29節の最初の部分を見てください。
[兄弟たち、私はこう言いたい。定められた時は迫っています。] [定められた時]というのも正確には、どのような時なのかは分かりません。
しかし、コリントの聖徒たちは、知っているはずです。
この時は、26節の[今危機が迫っている状態]と関係があると思います。
とにかく、大変な時が近づいていると理解したら良いでしょう。
ですので、[妻のある人はない人のように]と言います。
この意味は、結婚生活を適当にしなさいという意味ではありません。
すでに学びましたが、7章3、5節に書いてありますように、結婚生活は忠実にしなければなりません。
ただ、[妻のある人はない人のように]という御言葉の意味は、結婚の制度はこの世だけであるので、この結婚という事を人生の一番に置くことも、人生の目的としてはならないという意味です。
肉体の家庭のために神様の御国を無視したり、神様の御国と関係なく生きてはならないという意味です。
家庭を永遠の御国のための家庭となるようにしなければならないという意味で理解すればよいのです。
30節を見てください。[泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように] この御言葉は、世の悲しい事や喜びによって人生が揺り動いてはならないという意味です。
この世の価値や世の人々が目標とすることに自分の人生を合わせてはならないという意味です。
この世の人は、物質と名誉、また知識と権力、楽しみや快楽など。このようなことに自分の力を注ぎ、使います。
しかし、これらの事は、この世と共に無くなります。
神様の御国のために生きる時、私たちキリスト者は、この世の物質も名誉も権力も楽しみも豊かに享受することができない時があります。
時には、貧しくなり、苦難が訪れる時もあります。そのような時にも私たちは落胆をしたり、挫折したりしてはなりません。
なぜなら、私たちの喜びはそこにはないからです。
また、私たちには、永遠に消えない天の御国があるからです。私たちの本当の喜びは、神様の御国にあります。
主と共に永遠に生きる喜びが私たちにあります。
30節の後半部分から31節を見てください。
[物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです]
この世の物は、神様が私たちに与えてくださったものなので、自分のもののように生きてはならないと勧めます。
感謝しながら使い、またそれが私たちの偶像になってはなりません。その物自体が私たちに本当の幸いを与えてくれるのではありません。
このような世の物に縛られて生きてはならないとパウロは勧めているのです。なぜでしょうか。31節の最後の部分に書いてありますようにこの世の有様は過ぎ去るからです。
この世の物は、永遠にある物ではありません。過ぎ去るものです。
世の人々は、これらのものから自由な人生を生きられずに、不安でそれらに縛られているのです。
キリスト者だと言いながらも弱い私たちも同じではありませんか。
神様の民である私たちは、この世のものではなく、すべてを与えてくださる神様に頼り、神様が願っておられる道を歩むべき人です。
ですので、私たちは永遠の天のことを覚え、日々の生活をしなければなりません。
32節から再び、結婚の問題について勧めます。原則は、38節に書いてあります。
[要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです] パウロは、結婚しない人の方がもっと良いのですと勧めます。
なぜでしょうか。26節に[今危機が迫っている状態にあるので]、また32節に[思い煩わないでほしい]からです。
多くの苦難が訪れると結婚した夫婦は、互いのために心配をします。33節にこのように書いてあります。[結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い] 世の事に心を遣いという意味は、自分の家族のために心を遣うという意味です。
しかし、このような困難な状況にある時、結婚をしないとすれば、32節に書いてありますようにどうすれば主に喜ばれるかと、主の事に心を遣います。結婚した人は、様々な家族のことを心配することになります。
ですので、パウロは、主のために生きるならば、結婚をしない方が良いと言ったのです。
39節を見てください。[妻は夫が生きている間は、夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります]と書いてあります。
それにもかかわらず、パウロは40節を通してこのように勧めます。
[しかし、私の考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います]
その理由を35節の最後の部分にかいてあります。[ひたすら主に仕えさせるためなのです]
パウロは、今日の御言葉を通して私たちキリスト者の人生の原則について勧めています。
[品位のある生活をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです] 私たちキリスト者は、どのようなことをしてもこの原則がなければなりません。
品位のある生活、ひたすら主に仕えようという志です。
神様に従う時に二つの心があってはなりません。
主に従う道がどのような道なのかを悟り、その道をまっすぐに歩むべきです。品位のある生活、ひたすら主に仕える道を共に歩みましょう。
