信仰者の結婚について
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- 千禎鎬 牧師
- 聖書 コリントの信徒への手紙一 7章1節~16節
日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 7章1節~16節
パウロは、前回の6章で信仰のない人々に訴え出てはならないと勧め、またキリスト者にとって体というのは何なのかという事を教えてくれました。
私たちの体は、聖霊がおられる神殿であり、神様が代価を払って買い取られた尊いものであります。
ですので、コリント教会の聖徒たちに自分の体で、神様の栄光を現しなさいと勧めたのです。
そして今日の御言葉も6章に続いて、体に関する内容で結婚について勧めています。
コリント教会の聖徒たちは、キリスト者として結婚について自らパウロに手紙を送って尋ねました。
1節の最初の部分を見てください。[そちらから書いてよこしたことについて言えば]と書いてあります。
すると、パウロはその質問に対して手紙を通して答えました。それが今日の御言葉です。
結婚について聖書は、どのように教えているのでしょうか。
結婚というのは、神様が与えてくださった制度です。創世記2章21節以下を見ますと、神様はアダムのあばら骨で女をお造りになりました。
そして、創世記2章24節にこのように言われました。
[こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる] 聖書は、結婚というのは、一人の男と一人の女が結ばれ、一体となると教えます。
神様は、最初に一人の男と一人の女が夫婦になり、家庭を造るようにしてくださいました。一人の男が二人以上の妻を持ち、一人の女が二人以上の夫を持つということは正しくないということです。
旧約の時代にアブラハムやヤコブは何人もの妻を持ちました。
それは、その当時の社会の風習、また社会の制度には問題がないかもしれませんが、神様の創造の原理とは違います。ですので、彼らの家庭には様々な問題や不幸が何度もありました。
それは神様の懲戒かもしれません。結婚の目的は何でしょうか。
それは、夫と妻とが相互に助け合う関係のためです。
創世記2章18節にこのように書いてあります。[主なる神は言われた。「人が独りでいるのはよくない。彼に合う助ける者をつくろう」]
それでは、パウロは結婚についてどういう風に勧めているのでしょうか。
1節をもう一度見てください。ご一緒に読みましょうか。
[そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい] 言い換えれば、独身を勧めています。
しかし、パウロのこの答えは決して、独身主義者になりなさいということではありません。
信仰の有益のためにそのように言ったのです。
2節によく表しています。[しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい] この御言葉は、結婚をしてない男女は独身生活をする方が良いですが、それによってみだらな行いを通して罪を犯す危険があるので、男は妻を、妻は夫をむかえなさいという意味です。
また、9節にもこのように書いてあります。[しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです] どんなに禁欲生活をしているとしても神様の創造の秩序から離れ、一生禁欲生活に伴うつらい苦痛や悩みを自ら律法の軛を担ってはならないという意味です。
パウロ自身は、独身生活を願っていますが、みだらな行いを通して罪を犯す危険性があるから結婚しても良いと勧めています。
パウロは、すべての人が必ず結婚しなければならないとは言いません。
肉の情欲を抑制できない場合には結婚しても良いと言っています。
その人は、結婚して家庭を造り、キリストに忠実に仕えることができるからです。パウロは、できるならば、皆が自分のように結婚せず、キリストに仕えることを願っていますが、皆が自分と同じではないと教えているのです。
神様が人々に与えてくださった賜物は、それぞれに違います。ある人には、結婚して家庭を造り、神様に仕える賜物を、ある人には、独身の賜物を与えてくださいました。
それをよく知っていたパウロは、すべての人が自分のように独身で生きることを主張しませんでした。ですので、パウロは8節で未婚者とやもめに自分のように独りでいるのがよいと勧めました。しかし、9節で、[自分を抑制できなければ結婚しなさい]と言ったのです。
続いてパウロは、結婚したキリスト者の離婚問題について勧めます。
今の時代は、とても簡単に離婚をします。しかし、キリスト者において離婚というのは、本当に簡単な問題ではありません。
私個人は、離婚に関する明らかな、分明な原則があります。しかし、実際の夫婦問題に直面している人々の話を聞くならば、正直にこうしなさい、そうしなさいとははっきり言いにくいです。
なぜなら、当事者たちは、本当に辛くて心が痛いからです。しかし、聖書を通して答えを得るように願います。
まず、パウロは10-11節で主が直接に言われた結婚の命令について言います。
神様は、ご自身がお造りになった人間に結婚制度を与えてくださいました。
それに対してイエス様はマルコによる福音書10章6-9節を通してこのように言われました。ご一緒に探して読みましょうか。
[しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない] 続いて11-12節にこのように言われました。[イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる」] このような理由で妻は夫と離婚してはなりません。
もし、夫と離れるならば、そのまま独りで過ごし、またはその夫に戻り再び結ばれなければなりません。これは夫に対しても同じです。
結婚した家庭においてこのようなはっきりした原則の下に、主がパウロに直接命令されたことではありませんが、仕方なく離婚をしようとするキリスト者の家庭に向かってこのように勧めます。今日の箇所12-16節に書いてあります。
まず、12-14節はある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合はどのようにすればよいのかについて記されています。この場合、信者の夫は信者でない妻によって様々な苦労と悩み、苦痛があるでしょう。信者である夫が忠実にキリストに従おうとするとき、信者でない妻が理解してくれずに、妨げになる時が多々あるはずです。
それで信仰生活と関連して多くのトラブルが起こります。信者の妻の場合も同じです。
この場合において信者はどのような行動をすればよいのでしょうか。
パウロはこのように勧めます。[信者でない妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、夫は妻を離縁してはいけない] すなわち、信仰がないという理由で離婚してはならないということです。
信者であり、信仰の歩みを歩んでいく夫が信者でない女を妻として迎える時、信仰生活において様々なトラブルが起こると予想しなかったでしょうか。忠実な信者であれば、それに対して明らかに予想したでしょう。ですので、信者である夫は、信者でない妻と別れてはいけません。信者でない妻がキリストを主として受け入れ、キリストの中で一つの体となるようにしなければなりません。
そのようになるまで、信者の夫は信者でない妻との間で起こる様々なトラブルを乗り越えなければなりません。
実は、このように起こった様々なトラブルは、信者でない妻を迎えた夫自身が作り出した、招いた苦難なのです。ですので、その苦難を無責任に回避してはなりません。避けてはなりません。
この問題は、先ほども言いましたが、とてもつらくて、苦しい悩みなので、簡単に言える問題ではありません。
しかし、信者の夫が離婚をするならば、信者でない妻は、信者の夫によって信者となる機会を失ってしまいます。
すなわち、信者でない妻が信者となり、救われる機会を失うことになるのです。これは、信者の妻と信者でない夫の場合にも同じです。これをパウロは12-14節を通して勧めたのです。
離婚をするならば、その後の不幸はそれだけでとどまりません。子どもたちにまで影響が与えられます。
もしかしたら、子どもたちさえもキリストを主として受け入れる機会を失う危機もあります。
子どもたちが正しい信仰生活ができなくなることも起こるかもしれません。
15-16節は、もし、信者でない夫や妻が信仰的な葛藤や対立によって、離婚を願う場合には、どのようにすればよいのかについて記されています。
この場合、パウロは、[去るに任せなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません]と言います。
先ほど学びましたが、信者でない夫や妻が、信者の夫と妻と一緒に生活を続けたいと思っている場合には、神様が結んでくださった夫婦の関係を人が別れることができないという結婚の原則を守らなければなりません。
しかし、信者でない夫や妻が信仰的な葛藤や対立によって、離婚を願う場合には、もう夫婦として一緒にいる理由はありません。
結婚の原則を破ったのは、信者でない人だからです。
信者でない夫や妻が離婚を求める根本的な理由がキリストを信じる信仰を拒否したので、結婚に縛られてはいないということです。
キリスト者は、すでにキリストによって自由な人となったのです。
ですので、キリストを信じる信者は、信者でない人と生きながら信仰が抑圧された人生を自らすることになってはなりません。
それが、信者である本人はもちろん、子どもたちの救いのために、正しい信仰生活のために有益なのです。それで、パウロは、離婚しても良いとパウロは勧めます。
信者でない夫や妻が信仰の葛藤や対立関係の理由で離婚を求めるにもかかわらず、家庭の平和を守るために一緒に生活を続けようとしても信仰の利益はありません。
なぜなら、信者でない夫や妻が信者になるのかということについて全く確信がないからです。
もちろん、神様は、信者が平和な家庭の生活を送るように願うお方です。しかし、信者でない夫や妻が信仰の葛藤や対立関係の理由で離婚を求めるならば、[信者は結婚に縛られていません。
平和な生活を送るように、神はあなた方を召されたのです]と勧めたのです。
そしてキリストを信じる信者は、信者でない夫や妻が信仰の葛藤や対立の問題が起こり、離婚を求めても、そうではなくても置かれた環境の中でキリストに自分の全てを委ね、続けて献身をし、仕えなければなりません。
聖徒の皆様。
結婚というのは、神様が信者に与えてくださった大きなプレゼントです。
同時に大きな宿題や課題でもあります。それで、信者は祈りながら慎重に結婚をしなければなりません。
世が求める価値、基準によって結婚をしてはなりません。
私たちは、まだ、結婚をしていない青年のために、また、まだ幼い子どもですが、私たちの子どもたちの結婚のために切に祈らなければなりません。
私たちの家庭が、一つである信仰の家庭を造るならば、どれほど大きく幸せな恵みなのでしょうか。
また、信者でない夫と妻が救われるならば、これより大きな祝福と恵みがあるのでしょうか。
今日、一緒に礼拝を捧げる私たちは、日常生活の中で、家庭と職場、また結婚という課題の中で、本当に平和な生活を送るように願っておられる主と共に生きるように願います。