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2025年09月21日「自分の体で神の栄光を現しなさい」

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日本聖書協会『聖書 新共同訳』
コリントの信徒への手紙一 6章12節~20節

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コリント教会の聖徒たちを買い取られたので、コリント教会の聖徒たちは、神様6章1-11節は、信仰のない人々に訴え出てはならないという内容について学びました。今日の箇所は、私たちの体をどのようにすべきなのかということについての内容が記されています。
神様が私たちの体を創造された目的が何なのかと教える御言葉なのです。
パウロは、神様の想像の目的通りに私たちの体で神様の栄光を現しなさいと強調しています。

12節を見てください。[私には、すべてのことが許されている] 繰り返して記されています。2回記されています。
この言葉は、パウロが主張したことではなく、コリント教会の内部にいる自由主義者、すなわち、グノーシス主義者たちの主張だそうです。
彼らは、自分たちの行いを正当化するためにこの主張をしたのです。
パウロは、この12節の御言葉を通して彼らの主張を一旦は、受け入れました。しかし、すべてのことが許されていますが、すべてのことが益になるわけではないと反論します。彼らは、すでに救われて、信仰の自由を与えられたので、体を通してどんなことでもして良いと主張しました。しかし、重要なのは、信仰の共同体、すなわち、教会に益となるのか、これが重要なのです。

続いて12節の後半分を見てください。[しかし、私は何事にも支配されはしない]と書いてあります。どういう意味でしょうか。[すべてのことが許されている]というそれに支配されず、奴隷にならないということです。
例えば、コリント教会の聖徒の中で自由と言いながら、放縦の道を歩み、みだらな行いをする人がいました。これを自由だと言いますが、実は、みだらな行いという罪に支配されているのです。パウロは、このような道を歩まないと言ったのです。
私たちキリスト者は、私たちに許されているすべてのことに対して、また行う時、それが自分自身はもちろん、信仰の共同体、主の教会に益となるのか、それに支配されることにならないのか、いつも神様に聞かなければなりません。
私たちは、律法を守ったから救われた人ではありません。神様の愛と主イエス・キリストの恵みによって救われた人です。律法の義ではなく、キリストの贖いによって救われ、義とされました。救いの恵みには自由があります。ですので、キリスト者の人生には、自由があります。救いというのは、自由の宣言です。

ヨハネによる福音書8章32節に[あなたたちは、真理を知り、真理はあなたたちを自由にする]と書いてあります。
何から自由になるのでしょうか。[罪の奴隷]から自由になるのです。[真理]というのは何でしょうか。
ヨハネによる福音書14章6節に[イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である」]と書いてあります。イエス様ご自身が唯一の真理です。ヨハネによる福音書17章17節を見ますと、イエス様が神様にこのように祈られました。
[真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です] [あなたの御言葉は真理です]ということを言い換えれば、神様の御言葉が真理だということです。すなわち、真理であるイエス様と神様の御言葉を通して自由を与えられるという意味です。この自由は、罪を犯すための自由ではなく、イエス様に従い、神様の御言葉に従う自由であります。ガラテヤの信徒への手紙5章1節を見ますとこのように書いてあります。[この自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません] キリスト者の自由は、自分のために何でもするという自由ではありません。私たちは放縦と本当の自由を正しく悟らなければなりません。
成熟したキリスト者は、神様から与えられた自由を責任感を持って、また意味があるように、益となるように使う人です。

自由というのは、[機会]だと言われます。何のための機会でしょうか。体のために、罪を犯すための機会ではありません。
聖霊の実を結び、神様の栄光を現す機会です。神様が私たちを罪の奴隷から解放し、自由を与えてくださった理由があります。それが今日の御言葉の内容です。特に20節にはっきり書いてあります。また、これから学びますが、同じ意味の御言葉をコリントの信徒への手紙10章23節を通して強調します。このように書いてあります。[すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない]

前回も言いましたが、コリント教会の聖徒の中には、二元論的な思考を持っている人々がいたようです。彼らは霊魂と体を区分します。
霊魂は永遠に価値があると思い、体は死と共に無くなるので、永遠には価値がないと思いました。
彼らは、体で何をしても霊魂に影響を与えないので、体を通して何をしても良いと思いました。しかし、パウロは彼らの二元論的な思考は神様の御心ではないと教えます。

13節を見てください。[食べ物は腹のため、腹は食べ物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。
体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです] コリント教会の聖徒たちは、食欲が湧いて自然に食べるように、性欲を満たすことも自然なことだと思いながら、みだらな行いを合理化したそうです。
これに対してパウロは、それこそ神様の御心ではないと教えているのです。人は、みだらな行いをするために造られたのではありません。みだらな行いのために私たちの体を扱うのは、本当の自由ではないと教えます。体はみだらな行いのためにではなく、主のためにあり、主は体のためにおられると13節を通して教えます。
神様が私たちの体をお造りになったのは、主のためであって、みだらな行いのためではありません。
体は、神様が創造された目的通りに主に治められ、主の御言葉に従わなければなりません。

14節を見ますと、体の重要性について書いてあります。
[神は、主を復活させ、また、その方によってわたしたちをも復活させてくださいます] 私たちの体が神様の御力によって復活し、永遠の命を与えられるということです。体の大切さを悟らなければなりません。
主イエス・キリストを通して与えられる神様の救いは、体も含まれているのです。ですので、この体を軽んじたり、むやみに扱ったりしてはなりません。私たちの霊魂だけではなく、私たちの体も主イエス・キリストの血によって救われたのです。この体も主のものなので、主のために使わなければなりません。私たちの体について聖書はこのように教えます。
15節を見てください。[あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとはしらないのか] 19節を見てください。[知らないのですか。あなたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです] このように神様の神殿でふさわしくないことは、神様の霊がおられる私たちの体にもふさわしくないということを悟らなければなりません。
また、20節にはこのように書いてあります。[あなたがたは、代価を払って買い取られたのです] どういう意味でしょうか。神様が代価を払ってコのものだということです。このような彼らにパウロはこのように言います。20節の最後の部分を見てください。[自分の体で神の栄光を現しなさい]

聖徒の皆様。
神様は主イエス・キリストの犠牲によって私たちのために対価を払い、私たちを買い取られました。
私たちの霊魂だけではなく、体も神様のものとなりました。ですので、私たちは、神様の栄光を現す人生を生きなければなりません。
すなわち、神様が私たちをお造りになった目的に戻らなければなりません。神様の霊、聖霊が宿っておられる私たちの体をもう罪によって汚してはなりません。私たちの体を通して行うすべてのことを軽く思ってもなりません。
なぜなら、私たちの体は、神様のものであり、また私たちの体には、聖霊がおられるからです。家庭で、学校で、職場で、また教会で、私たちが置かれている環境の中で行うすべての行いが神様の栄光とどのような関係を持っているのかと、いつも考えながら生きていきいきましょう。

最後にもう一つ考えましょう。18節の最初の部分を見ますと、このように書いてあります。[みだらな行いを避けなさい]  
私はこのように表現したいです。[そこから逃げなさい] 私たちをみだらな行いをするようにする考えや場所から逃げるのが良いのです。
これが知恵です。ヨセフのことを思い出してください。ポティフㇷルの妻がヨセフを誘惑した時、ヨセフはどのようにしましたか。
創世記39章12-13節を見ますと、ヨセフは、自分の着物をそこに残して逃げました。
卑怯に見えるし、ずるく見えますが、ヨセフは知恵ある行動をしたのです。そのようにヨセフは、自分の体を娼婦の体の一部にしませんでした。

私たちキリスト者は、イエス様の体の一部です。イエス様の体の一部は、主の体である教会に属しています。
このことを心に刻んで、私たちの体で神様の栄光を現し、生きるようにしましょう。お祈りを致します。

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