?> 神と共に歩むクリスチャンの人生観・死生観 栃木県鹿沼市のプロテスタント教会

神と共に歩むクリスチャンの人生観・死生観

問い合わせ

日本キリスト改革派 宇都宮教会のホームページへ戻る

神と共に歩むクリスチャンの人生観・死生観

イエス・キリストを信じて歩む人生を選択した時、この世の欲に眼を奪 われることなく、心と魂に平安が与えられ、社会を力強く生きるように変 えられます。同時に、死は恐怖ではなく、人間のゴールでもありません。 むしろ、罪を赦された者として、死は完成の喜びであり、凱旋であるとい えます。    神と共に歩むクリスチャンの人生観・死生観   ―神・隣人・教会・企業・社会・世界に仕える信仰ー                         2021 年 2 月 28 日                              豊川修司  1. はじめに 長いクリスチャン人生の中で、一番願ってきたことは、一人でも多くの方々が教会に導かれて、主イエス・キリストを信じて、洗礼を受けて欲しいということです。(教会ではこの方々を求道者と呼んでいます) この小さな文章は、わたしの歩みを紹介しつつ、求道者の方々に読んでいただきたいと願い執筆しました。でも、求道者の方だけでなく、既に洗礼を受けているクリスチャンの方々にも読んでいただき、求道者の救いに心を向けて頂きたいと願っています。 今、世界・日本は新型コロナウイルス感染拡大の最中にいます。教会は礼拝を持つのが精一杯な状況ですが、このような社会にあっても信仰を求めている方が多くいます。その方々に心を向けて、Zoom(ズーム)で求道者会が可能です。是非、教会で試行することをお薦めします。 教会はあなたのために、いつも門戸を開放しています。 2.企業時代 わたしの生き方は、母のキリスト教信仰の影響が大でした。工業高校3 年の時洗礼を受け、KDDに就職のため仙台から上京してきました。最初の配属先である「上福岡受信所」に勤務したとき、その町に新しくできたプロテスタント教会(現在の日本キリスト改革派上福岡教会)に通い始めました。これが企業と教会生活の始まりです。 (※KDD:国際電信電話KK、現在のKDDIの前身) その後、50 歳ころ、会社は通信の自由化で合併を余儀なくされました。定年まで会社に残るべきか、あるいは、依願退職して牧師の道を選択すべきかを考えましたが、それまで心に描いていた牧師の道を選択しました。 KDDに 34 年間勤務した最後の職場は、社員 6,000 人の総括で業務系といわれる学卒者(法科・経済)のポストである本社総務人事本部総務グループ・プロジェクト・マネージャー(上級管理職)を務めさせていただきました。この部署は業務系学卒者の憧れのポストでした。 こうして 34 年間 52 才で、大好きなKDDを依願退職しました。企業には何一つ不満はなく、工業高校卒の者をここまで高く引き上げてくださった会社に感謝しています。 3.企業人生から牧師の道へ わたしの人生を大きく成長させてくれたのは、初めて配属された職場 (国際短波通信業務:福岡受信所)でした。都市化のあおりで廃局が決まり、5 年間、残務整理要員でしたが、上司はわたしを励まし、人生について多くのアドバイスをしてくれました。上司はクリスチャンではありませんでしたが、いつもわたしに配慮し、人間に対する興味を高めてくれました。 残務整理を終えて、東京大手町にある国際通信回線の関門局に異動しました。この職場は、日本と世界の国々を結ぶ重要なところで、若い技術者たちが世界の技術者と英語で話し、24 時間体制で働いていました。 「ここは凄い職場だ。これまでの残務整理の日々から、社内で一番活気のある職場に配置してくださったのだ。諦めずに忍耐してよかった。神様ありがとう」 そのような中、わたしの職場に、体調を崩した社員が異動になりました。表情をみる限り、顔は青白く、具合が悪そうでした。どう対応してよいか わかりませんでしたが、彼に自信をもたせようと、皆で話し合ったことを 覚えています。一人の人間を救うこと(生きる自信や希望を与えること) は、結果的に職場を活性化し、生産性を高めることに気付きました。「企 業は人なり」といいますが、まさしくそうです。 一方、教会では牧師が青年をよく指導し、聖書に対する興味を高めてくれました。こうして企業の上司にも、教会の牧師にも恵まれ、18 才から 52 才まで実に 34 年間、社会人経験を沢山積んできました。 この間、何一つ無駄なことはなく、牧師になるための準備だったと思います。このように、会社と退職前の教会を振り返ると、双方ともに「人」を大切にしていたと思います。会社はわたしを 3 度人事部に異動させたこともこの姿勢の表れだったのかもしれません。 4.聖書に基づく人間の状態 聖書は、人間の生き方(自由意思)について 4 つの状態を示していま す。(ウエストミンスター信仰告白第 9 章「人間の自由意思」) (1)神に創造された時点での人間の状態 聖書によれば、神は人間を土からお造りになりました。しかも神に似て造られたとあります(創世記1:27)。似るとは、神の性質である正 義や愛を持った人間です(コロサイ3:10)。 神と共にエデンの園で生活していた人間は、神の前で全く自由を与え られていました。それは、神に創造された人間には罪が無かったからです。 (2)約束を破って罪と悲惨にある状態 神に似て創造された人間(アダムとエバ)は、エデンの園という「神の国」で生活をしていました。神は、人間に完全な服従として、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」 (創世記 2:16、17)という約束を与えました。しかし、人間は蛇(サタン:ヨハネ黙示録 12:9)にそそのかされて、約束を破り、善悪の木の実を食べてしまったのです。 このとき以来、人間は神の前に罪人(神の約束を破ること)になり、アダムだけでなく、アダムの子孫(全人類)が罪を背負って生まれることになったのです(人間の歴史、世界の歴史を見ても、人間が犯す罪は数え切れません)。誰かが教えるわけでもないのに、人間は罪を犯します。以下は、聖書が述べる罪の内容です。(ローマ1:29~30)。 ※「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」 人間が罪の状態から救われるためには、罪を持たず罪を犯したことがないお方が、罪を赦してくださる以外に罪から解放される道はありません。では、どうしたら罪から救われるのでしょうか。その答えは、神の独り子(ひとりご)であるイエス・キリストを知り、信じることです。 (3)イエス・キリストの贖いによる罪の救いの状態 聖書は、人間が罪から救われるためには、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストの福音を信じるように勧めています。 罪が赦されるとは、①神の独り子がわたしたちの罪のために十字架におかかりになり、罪の身代わりになったこと、②死んで墓に 3 日間葬られたこと、③その後三日目に死人から復活されたことを信じることです。 (コリント一 15:1~8) そのしるしとして洗礼を受けます。まさに自分の人生を、もはや自分自身のために生きるのではなく、イエス・キリストに造り変えられた者として新しく生きるのです。普通、人間は自分自身のため、あるいは自分中心 に生きますが、キリストを信じて生きる者は、もはや自分のためではなく、神のために、隣人のために生きるのです。 (4)完全に救われた状態 では、今の時代、イエス・キリストが生まれてからこの 2000 年をどのように考えるのでしょうか。聖書は、この世の終わりには、イエス・キリストが再びこの地上に来られると言います(キリストの再臨という)。 再臨の時、既に地上生涯を終えて、神の国に入った者や信仰を持たずし て地上を去った者たちは全員復活して、キリストの前で審判を受けます。この時、信仰を持って地上生涯を終えた者たちは、完全な罪の赦しが与 えられ、神と共に永遠に生きることができるように、救いの完成に導いてくれます。一方、信仰を拒否し続けてきた者たちは、神から永遠の裁きの審判がくだされます。主イエス・キリストは、そうならないように、教会の門戸を開き、一人でも多くの方々がイエス・キリストを信じるように待っているのです。(ペテロ二 3:9) 5.教会とは それでは教会とは何でしょうか。教会はなぜ必要なのでしょうか。 聖書は、教会を「キリストの体」(コロサイ1:24)と呼んでいます。教会では、牧師が神のみ言葉を解き明かし、人間の罪を自覚させ、悔い改めに導き、聖霊によってイエス・キリストを信じるように改心させてくださいます。これは御言葉と聖霊なる神の働きによるのです。(コリント一12:3) また、信じた者が信仰を持って、地上生涯を送ることができるように、日曜日ごとの礼拝でみ言葉を聞き、魂の栄養をいただくのです。 人間には肉体の保持や体の維持のために食事が必要です。同様に、人間の心には栄養が必要です。その栄養は神の御言葉、聖書です。日々食事をいただくように、御言葉の食事も同様に重要です。聖書には有名な御言葉があります。 ※「イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」(マタイ4:4) 6.クリスチャンの生き方 これまで述べてきたクリスチャン人生は、神・イエス・キリスト・聖霊・人間、人間同士の 5 者の関係が相互に関係して生きています。クリスチャンは、自分自身のために生きるのではなく、神と教会と隣人(となりび と)のために生きることになります。 (1)神の栄光を現す生き方 この生き方を示した御言葉は下記の箇所です。 ※「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(コリント一 10:31) この御言葉は、わたしたちに与えられた人生の全時間を、どのように用いるかを示唆しています。職業において、勉学において、生活において、病の中にあっても、神に造られた人間として、最善を尽くすことです。 企業時代の仕事の原点はここにありました。神の前に誠実に生きること、すなわち神が与えたもう上司に仕え、最大の能力を発揮するという生き方です。それゆえ、入社当初の廃局残務整理5年間や国際デジタル回線の急増の時も、若い技術者たちが乗り切れたのは、クリスチャン社員が先頭に立って、生き生きと仕事をしていたからではないかと思います。 (2)神と隣人に仕える生き方 聖書の中に、ある律法学者がイエス・キリストを試そうとして質問をした箇所があります。 ※「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ 22:36~40) 律法全体と予言者とは、聖書全体 66 巻(旧約聖書 39 巻と新約聖書 27 巻)のことです。聖書は、①神を愛することと、②自分を愛するように隣人を愛することを勧めています。 では、愛とは具体的にどのようなことでしょうか。コリント一 13 章に愛の内容が示されています。長い引用ですが書き留めます。 (3)愛を持って歩む生き方 愛についての教えは、コリント信徒の手紙一13章が有名です。その一部を掲載します。 ※「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼 を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。・・・それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリント一 13: 4~7、13) 愛を持って人生を生きたら、目の前にある小さなことに目を注がず、隣人に謙虚に対応できるのではないでしょうか。神と共に生きる人生は、わたしたちの心の目を近視眼的ではなく、視野を広げさせ、永遠の方に心を向けてくださるのです。教会においても、社会においても、人間の持つべき資質は、人に対する思いやりと愛です。 7.結論 ―クリスチャンの人生観・死生観― イエス・キリストを信じて歩む人生を選択した時、この世の欲に眼を奪われることなく、心と魂に平安が与えられ、社会を力強く生きるように変えられます。同時に、死は恐怖ではなく、人間のゴールでもありません。むしろ、罪を赦された者として、死は完成の喜びであり、凱旋であるといえます。 聖書は、クリスチャンの本国(国籍)は天にあると語り(フィリピ 3: 18~20)、地上生活は一時の仮住まいで、この世では寄留者であり、旅人であると語っています。また、その場所はヨハネ黙示録 21:3~4 に示されています。 ※「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピ 3:18~20) すなわち、ハイデルベルグ信仰問答書問1に次の言葉があります。 問1「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めはなんですか」答 「わたしが自分のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、 わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。」 わたしたちの体は、自分自身のものではなく、代価を払って買い取られたのです。自分の人生を自分の楽しみにだけに使うとは、何と視野の狭い生き方なのでしょうか。そうではなく、罪赦された者として、精一杯、社 会を生きてください。そしてあなたの人生のギアを一段引き上げてください。 わたしは人生 70 年後半に入ってきました。これから生きたとしてもせ いぜい 10 年くらいです。ですから、残された人生を、神のために、キリストのために、教会のために、隣人のために、社会のために、明日に希望を持てない人々のために、将来を背負う若い人たちのために時間・体・経済・賜物などを惜しみなく提供したいと思います。 そうする時に、主は、最もふさわしい時にわたしの地上生涯を終わらせ、永遠の御国へと招いてくださると信じています。 どうか、一人でも多くの方々が教会に来て、御言葉を聞き、救いに入り、洗礼を受けることができるように祈っています。                   日本キリスト改革派教会引退教師                   宇都宮教会代理牧師、上福岡教会員                                     以上

   神と共に歩むクリスチャンの人生観・死生観
  ―神・隣人・教会・企業・社会・世界に仕える信仰ー
                        2021 年 2 月 28 日
                             豊川修司 


1. はじめに


長いクリスチャン人生の中で、一番願ってきたことは、一人でも多くの方々が教会に導かれて、主イエス・キリストを信じて、洗礼を受けて欲しいということです。(教会ではこの方々を求道者と呼んでいます)
この小さな文章は、わたしの歩みを紹介しつつ、求道者の方々に読んでいただきたいと願い執筆しました。でも、求道者の方だけでなく、既に洗礼を受けているクリスチャンの方々にも読んでいただき、求道者の救いに心を向けて頂きたいと願っています。
今、世界・日本は新型コロナウイルス感染拡大の最中にいます。教会は礼拝を持つのが精一杯な状況ですが、このような社会にあっても信仰を求めている方が多くいます。その方々に心を向けて、Zoom(ズーム)で求道者会が可能です。是非、教会で試行することをお薦めします。
教会はあなたのために、いつも門戸を開放しています。

2.企業時代
わたしの生き方は、母のキリスト教信仰の影響が大でした。工業高校3 年の時洗礼を受け、KDDに就職のため仙台から上京してきました。最初の配属先である「上福岡受信所」に勤務したとき、その町に新しくできたプロテスタント教会(現在の日本キリスト改革派上福岡教会)に通い始めました。これが企業と教会生活の始まりです。
(※KDD:国際電信電話KK、現在のKDDIの前身)
その後、50 歳ころ、会社は通信の自由化で合併を余儀なくされました。定年まで会社に残るべきか、あるいは、依願退職して牧師の道を選択すべきかを考えましたが、それまで心に描いていた牧師の道を選択しました。

KDDに 34 年間勤務した最後の職場は、社員 6,000 人の総括で業務系といわれる学卒者(法科・経済)のポストである本社総務人事本部総務グループ・プロジェクト・マネージャー(上級管理職)を務めさせていただきました。この部署は業務系学卒者の憧れのポストでした。
こうして 34 年間 52 才で、大好きなKDDを依願退職しました。企業には何一つ不満はなく、工業高校卒の者をここまで高く引き上げてくださった会社に感謝しています。

3.企業人生から牧師の道へ
わたしの人生を大きく成長させてくれたのは、初めて配属された職場
(国際短波通信業務:福岡受信所)でした。都市化のあおりで廃局が決まり、5 年間、残務整理要員でしたが、上司はわたしを励まし、人生について多くのアドバイスをしてくれました。上司はクリスチャンではありませんでしたが、いつもわたしに配慮し、人間に対する興味を高めてくれました。

残務整理を終えて、東京大手町にある国際通信回線の関門局に異動しました。この職場は、日本と世界の国々を結ぶ重要なところで、若い技術者たちが世界の技術者と英語で話し、24 時間体制で働いていました。
「ここは凄い職場だ。これまでの残務整理の日々から、社内で一番活気のある職場に配置してくださったのだ。諦めずに忍耐してよかった。神様ありがとう」

そのような中、わたしの職場に、体調を崩した社員が異動になりました。表情をみる限り、顔は青白く、具合が悪そうでした。どう対応してよいか わかりませんでしたが、彼に自信をもたせようと、皆で話し合ったことを 覚えています。一人の人間を救うこと(生きる自信や希望を与えること) は、結果的に職場を活性化し、生産性を高めることに気付きました。「企 業は人なり」といいますが、まさしくそうです。

一方、教会では牧師が青年をよく指導し、聖書に対する興味を高めてくれました。こうして企業の上司にも、教会の牧師にも恵まれ、18 才から
52 才まで実に 34 年間、社会人経験を沢山積んできました。
この間、何一つ無駄なことはなく、牧師になるための準備だったと思います。このように、会社と退職前の教会を振り返ると、双方ともに「人」を大切にしていたと思います。会社はわたしを 3 度人事部に異動させたこともこの姿勢の表れだったのかもしれません。

4.聖書に基づく人間の状態
聖書は、人間の生き方(自由意思)について 4 つの状態を示していま
す。(ウエストミンスター信仰告白第 9 章「人間の自由意思」)

(1)神に創造された時点での人間の状態
聖書によれば、神は人間を土からお造りになりました。しかも神に似て造られたとあります(創世記1:27)。似るとは、神の性質である正

義や愛を持った人間です(コロサイ3:10)。
神と共にエデンの園で生活していた人間は、神の前で全く自由を与え られていました。それは、神に創造された人間には罪が無かったからです。

(2)約束を破って罪と悲惨にある状態
神に似て創造された人間(アダムとエバ)は、エデンの園という「神の国」で生活をしていました。神は、人間に完全な服従として、「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
(創世記 2:16、17)という約束を与えました。しかし、人間は蛇(サタン:ヨハネ黙示録 12:9)にそそのかされて、約束を破り、善悪の木の実を食べてしまったのです。

このとき以来、人間は神の前に罪人(神の約束を破ること)になり、アダムだけでなく、アダムの子孫(全人類)が罪を背負って生まれることになったのです(人間の歴史、世界の歴史を見ても、人間が犯す罪は数え切れません)。誰かが教えるわけでもないのに、人間は罪を犯します。以下は、聖書が述べる罪の内容です。(ローマ1:29~30)。

※「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」

人間が罪の状態から救われるためには、罪を持たず罪を犯したことがないお方が、罪を赦してくださる以外に罪から解放される道はありません。では、どうしたら罪から救われるのでしょうか。その答えは、神の独り子(ひとりご)であるイエス・キリストを知り、信じることです。

(3)イエス・キリストの贖いによる罪の救いの状態
聖書は、人間が罪から救われるためには、自分の罪を悔い改めて、イエス・キリストの福音を信じるように勧めています。
罪が赦されるとは、①神の独り子がわたしたちの罪のために十字架におかかりになり、罪の身代わりになったこと、②死んで墓に 3 日間葬られたこと、③その後三日目に死人から復活されたことを信じることです。
(コリント一 15:1~8)
そのしるしとして洗礼を受けます。まさに自分の人生を、もはや自分自身のために生きるのではなく、イエス・キリストに造り変えられた者として新しく生きるのです。普通、人間は自分自身のため、あるいは自分中心

に生きますが、キリストを信じて生きる者は、もはや自分のためではなく、神のために、隣人のために生きるのです。

(4)完全に救われた状態
では、今の時代、イエス・キリストが生まれてからこの 2000 年をどのように考えるのでしょうか。聖書は、この世の終わりには、イエス・キリストが再びこの地上に来られると言います(キリストの再臨という)。
再臨の時、既に地上生涯を終えて、神の国に入った者や信仰を持たずし て地上を去った者たちは全員復活して、キリストの前で審判を受けます。この時、信仰を持って地上生涯を終えた者たちは、完全な罪の赦しが与
えられ、神と共に永遠に生きることができるように、救いの完成に導いてくれます。一方、信仰を拒否し続けてきた者たちは、神から永遠の裁きの審判がくだされます。主イエス・キリストは、そうならないように、教会の門戸を開き、一人でも多くの方々がイエス・キリストを信じるように待っているのです。(ペテロ二 3:9)

5.教会とは
それでは教会とは何でしょうか。教会はなぜ必要なのでしょうか。
聖書は、教会を「キリストの体」(コロサイ1:24)と呼んでいます。教会では、牧師が神のみ言葉を解き明かし、人間の罪を自覚させ、悔い改めに導き、聖霊によってイエス・キリストを信じるように改心させてくださいます。これは御言葉と聖霊なる神の働きによるのです。(コリント一12:3)
また、信じた者が信仰を持って、地上生涯を送ることができるように、日曜日ごとの礼拝でみ言葉を聞き、魂の栄養をいただくのです。
人間には肉体の保持や体の維持のために食事が必要です。同様に、人間の心には栄養が必要です。その栄養は神の御言葉、聖書です。日々食事をいただくように、御言葉の食事も同様に重要です。聖書には有名な御言葉があります。

※「イエスはお答えになった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」(マタイ4:4)

6.クリスチャンの生き方
これまで述べてきたクリスチャン人生は、神・イエス・キリスト・聖霊・人間、人間同士の 5 者の関係が相互に関係して生きています。クリスチャンは、自分自身のために生きるのではなく、神と教会と隣人(となりび

と)のために生きることになります。

(1)神の栄光を現す生き方
この生き方を示した御言葉は下記の箇所です。

※「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(コリント一 10:31)

この御言葉は、わたしたちに与えられた人生の全時間を、どのように用いるかを示唆しています。職業において、勉学において、生活において、病の中にあっても、神に造られた人間として、最善を尽くすことです。
企業時代の仕事の原点はここにありました。神の前に誠実に生きること、すなわち神が与えたもう上司に仕え、最大の能力を発揮するという生き方です。それゆえ、入社当初の廃局残務整理5年間や国際デジタル回線の急増の時も、若い技術者たちが乗り切れたのは、クリスチャン社員が先頭に立って、生き生きと仕事をしていたからではないかと思います。

(2)神と隣人に仕える生き方
聖書の中に、ある律法学者がイエス・キリストを試そうとして質問をした箇所があります。

※「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ 22:36~40)

律法全体と予言者とは、聖書全体 66 巻(旧約聖書 39 巻と新約聖書 27 巻)のことです。聖書は、①神を愛することと、②自分を愛するように隣人を愛することを勧めています。
では、愛とは具体的にどのようなことでしょうか。コリント一 13 章に愛の内容が示されています。長い引用ですが書き留めます。

(3)愛を持って歩む生き方
愛についての教えは、コリント信徒の手紙一13章が有名です。その一部を掲載します。
※「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼

を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。・・・それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリント一 13:
4~7、13)

愛を持って人生を生きたら、目の前にある小さなことに目を注がず、隣人に謙虚に対応できるのではないでしょうか。神と共に生きる人生は、わたしたちの心の目を近視眼的ではなく、視野を広げさせ、永遠の方に心を向けてくださるのです。教会においても、社会においても、人間の持つべき資質は、人に対する思いやりと愛です。

7.結論 ―クリスチャンの人生観・死生観―
イエス・キリストを信じて歩む人生を選択した時、この世の欲に眼を奪われることなく、心と魂に平安が与えられ、社会を力強く生きるように変えられます。同時に、死は恐怖ではなく、人間のゴールでもありません。むしろ、罪を赦された者として、死は完成の喜びであり、凱旋であるといえます。
聖書は、クリスチャンの本国(国籍)は天にあると語り(フィリピ 3:
18~20)、地上生活は一時の仮住まいで、この世では寄留者であり、旅人であると語っています。また、その場所はヨハネ黙示録 21:3~4 に示されています。

※「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピ 3:18~20)

すなわち、ハイデルベルグ信仰問答書問1に次の言葉があります。
問1「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めはなんですか」答 「わたしが自分のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、
わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです。」

わたしたちの体は、自分自身のものではなく、代価を払って買い取られたのです。自分の人生を自分の楽しみにだけに使うとは、何と視野の狭い生き方なのでしょうか。そうではなく、罪赦された者として、精一杯、社

会を生きてください。そしてあなたの人生のギアを一段引き上げてください。

わたしは人生 70 年後半に入ってきました。これから生きたとしてもせ
いぜい 10 年くらいです。ですから、残された人生を、神のために、キリストのために、教会のために、隣人のために、社会のために、明日に希望を持てない人々のために、将来を背負う若い人たちのために時間・体・経済・賜物などを惜しみなく提供したいと思います。

そうする時に、主は、最もふさわしい時にわたしの地上生涯を終わらせ、永遠の御国へと招いてくださると信じています。
どうか、一人でも多くの方々が教会に来て、御言葉を聞き、救いに入り、洗礼を受けることができるように祈っています。

                         日本キリスト改革派教会引退教師
                         宇都宮教会代理牧師、上福岡教会員

                                      以上

毎週日曜は礼拝の日

日本キリスト改革派 宇都宮教会では、毎週日曜日、神様への感謝と祈りをささげる礼拝を開いています。この礼拝はキリスト教に興味のある方でしたら、どなたでも自由に参加できます。お仕事などで都合のつかない方は、毎月第一、第三金曜日の聖書研究会&お祈り会がお勧めです。あるいは牧師の携帯電話(090-2411-7246)にご連絡くだされば、嬉しいです。

日曜礼拝
毎週日曜日 午前10時30分~11時45分
必要な持ち物は特にありません。聖書や讃美歌などは教会でお貸します。
聖書研究会&祈祷会
毎週金曜日 10時30分から12時00分
こちらも必要なものは特にありません。聖書について学び、皆で神様にお祈りを捧げます。

お気軽にお問い合わせを

「一度礼拝に出席してみたい」

「教会に行ってみたい」

「でも、どうしたらよいかわからない」

そんな時は専用の問い合わせフォームからご質問ください。 担当スタッフが折り返しお返事を差し上げます。 電話でのお問い合わせなら090-2411-7246まで。その際 「ホームページを見たのですが」 とお伝えくださると話が通じやすくなります。