2024年02月18日「エルサレム会議」
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エルサレム会議
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
使徒言行録 15章1節~21節
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聖書の言葉
ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。
エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。
そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。
人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」
すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。
二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。『「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、元どおりにする。それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、こう言われる。』
それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。使徒言行録 15章1節~21節
メッセージ
使徒言行録15章1節から21節に記されているのは通称「エルサレム会議」と呼ばれる。アンティオキア教会で起きた律法をめぐるやりとりが記されている。この聖書の箇所は、教会政治、特に長老主義政治の原型とも言える箇所であり、長老主義政治を採用する私たちが絶えず、思い起こして起きたい聖書箇所。
アンティオキアでは、異邦人宣教が進展した(4章27節)。彼らはユダヤ人ではないので当然、無割礼。そこで、ユダヤ人からキリスト者となった人々が異邦人に対する割礼を要求した。パウロとバルナバはこのユダヤ人たちと論争をしたが、自分たちだけで結論を出すことをせずに、使徒や長老たちと協議をするためにエルサレムに向かったのである。こうして開かれた会議がエルサレム会議である。この会議での決定は、信仰によってのみ救われるという理解を再確認し、異邦人信徒に割礼を強制しないことを決定した。
長老主義を始めとして、教会政治とは教会における物事の決め方である。そこでは何が重んじられるのか。まず、パウロ達が行ったのは恵みの確認である。具体的にいえば異邦人が改宗した次第を詳しく伝えた。そして、神が自分たちと共にいたことをことごとく報告したのである。そしてこれを喜んだ。教会会議において、必ずなされるのが報告である。それは神の恵みを思いお越し共に喜ぶこと。
次に、この会議は「使徒達と長老たち」で行われたということ。アンティオキアとエルサレムだけでなく、アクセス可能な地域から人々が集まってきたと推測される。それは近隣の地域の教会だといっても良い。長老主義は英語では「プレスビテリ」という。この言葉は「中会」を意味するので本来、「中会主義」といっても良い。自分たちで決めるのではなく、諸教会の代表者と共に、全体の方向性を決めていく。横のつながりをたえず意識することにより、独りよがりではなく健全さを求めつつ、神の教会を建て挙げていくことが長老主義なのである。
このように、長老主義とは、各教会から選出された代表者によってなされる。各個教会においては、信徒から選出された長老によってなされる。そこでは、多様な意見が尊重される。実際に、この会議は律法の遵守を主張するユダヤからの改宗者を排除しなかった。なによりも、律法や割礼それ自体が悪いわけではない。どちらも神の民として歩むために神が与えて下さったものである。しかし、ユダヤ人達の主張は退けられた。何が決め手だったのか。一つは、ペトロの主張した、「神は異邦人にも聖霊を与えてくださった」(8節)。これはペトロが個人的な証しをしたというよりも聖霊の導きに謙虚に信頼したということ。そして次に、ヤコブが預言書から引用したように、聖書に根拠を求めたということである。長老主義においても、聖書に聞きつつ、伝統的に重んじてきた信条や政治規準によって物事を決める。これは文章に権威があるのではなく、聖霊が教会を通して与えて下さった知恵に信頼するということである。
最終的に、エルサレム会議は、福音の普遍性と包括性を強調し、信仰により救われることを確かめた。この歴史的な出来事を通して、私たちは神の福音がすべての人に開かれていること、そして教会が一致してこの福音を広めるために働くべきであることを再確認するのである。教会政治もこのためにある。