2023年10月01日「キリストによる派遣」

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キリストによる派遣

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
マタイによる福音書 10章1節~15節

音声ファイル

聖書の言葉

イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。
イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい。帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれを受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和は彼らに与えられる。もし、ふさわしくなければ、その平和はあなたがたに返ってくる。あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。はっきり言っておく。裁きの日には、この町よりもソドムやゴモラの地の方が軽い罰で済む。」マタイによる福音書 10章1節~15節

メッセージ

この聖句でまず語られているのは主イエスが弟子たちを選び、どのように彼らを使命とともに派遣したかということ。この行為それ自体にまず注目したい。イエスが弟子たちを単独ではなく、まず12人を選びこれを一つのグループとした。他の福音書をみると、この12人を一人ずつではなく二人一組で派遣したことがわかる。キリストの弟子は一つの共同体である。一人ではなく、共同体として、また、誰かと共に生きる。この重要性を示している。イエス自身も一人で生きることを望んでおらず、弟子たちとともに生きた。

また、弟子たちは多様な背景、性格、信念を持つ人々であった。このことが、イエスの教えの普遍性と包括さを強調している。しかしイエスは、これら多様な弟子たちを選び、一つにまとめていく特別な使命を与えた。その使命は、「天の国が近づいた」というメッセージを伝え、人々を癒すことであった。彼らはユニークなキャラクターを持っていたが、この使命にあって結びつけられていた。

キリストは派遣するにあたり必要はすべて与えられると弟子達に言われた。その中で履き物を持って行ってはいけないという10節の言葉に注目したい。これは変な命令である。旅をするのに履き物は必要不可欠なはず。この背後に旧約の教えを見ることができる。履き物を脱ぐときは神の臨在の時。履き物を持って行くなという命令はキリストから遣わされた一人ひとりに神の臨在があり神が共にいてくださるということ。

教会はこの弟子達の派遣に自分たちを重ねて理解してきた。教会、そして教会に連なる私たちは派遣される存在である。弟子達はキリストから権威を委ねられた一人ひとり。こうした弟子達の姿を「小さなキリスト」と形容することがある。そして私たち現代の信者も「小さなキリスト」として派遣されている。私たちはキリストではないが、キリストから権威を委ねられ、それぞれのところに派遣されていく。礼拝の最後が派遣なのはこの事実を教えている。

キリストは平和を運ぶことが弟子たちの使命として特に強調された。このシャロームという挨拶はユダヤの伝統に由来しており、私たちはこの平和を、身近な人々、特に共同体にもたらす使命がある。それは神の平和、神との関係の平和であり、それを運ぶ使命が私たちにはある。

私たちはこの平和をどこに運ぶべきか。キリストは弟子達の派遣をユダヤの地域に限定した。それは言い換えると弟子達にとっては自分の地である。私たちが平和を運ぶのは、自分の身近なところである。「私たちが行くところ、私たちが関わる人々」である。