2023年11月05日「キリストに受け入れられる」
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キリストに受け入れられる
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 10章26節~33節
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聖書の言葉
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」
「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」マタイによる福音書 10章26節~33節
メッセージ
10月31日は宗教改革記念日。マルティン・ルターによって始まったこの日は、ルターがカトリック教会に対する質問状を掲示したことで知られる。ルターは正しい意味で神を恐れた。このルターの神を恐れる姿勢は、神を正しく理解し、自らを神の前に立つことの重要性を教えている。神は苦しめる存在ではなく、味方。罪と恐れからの解放者。この神の姿こそ福音として聖書が伝えているもの。ルターは聖書の真実に立ち、それによって人間の恐れから解放された。ルターのスピリットは、神の言葉に生き、宗教改革の教会が生きるべきスピリットでもある。
ルターは直接、本日の聖書箇所を引用しているわけではないがそのスピリットは生きている。「人々を恐れてはならない」というマタイの御言葉は、戒めや命令ではなく、むしろ励ましである。宣教の御業に向かうキリストの弟子たちへの慰めであり、彼らが経験するであろう恐れを払拭するために語られたものだ。私たちもまた、日常のさまざまな恐れに直面する。交通事故の恐れや社会的な恐れなど、様々な形で恐れは現れるが、これらは死への恐れ、つまり全てを失うことへの恐れに基づいている。
この死への恐れは、肉体的な死だけでなく、精神的な死や関係性の死としても現れる。人々は自分を否定されることを恐れ、その恐れは避けられないものとなる。しかし、主イエスは私たちに「恐れるな」と励ます。神は私たちを必ず守り、私たち一人一人を大切に見守ってくれる。神は私たちの髪の毛一本一本にまで目を配り、私たちを守る。この信頼により、私たちは恐れから解放される。
最終的に、主イエスを信じる者はキリストに受け入れられる。キリストは私たちを仲間とし、死から復活した主として、死に打ち勝つ力をもって私たちを守って下さる。この御方に従い、どんな苦難があろうとも、たとえ肉体の死を思い起こすことがあっても、キリストについて行く。キリストに受け入れられるという事実は、私たちが地上でも天上でも共に生きるという約束であり、最大の慰めである。
私たちはキリストの愛と勝利によって受け入れられ、キリストの復活という確かな希望に生きる。イエス・キリストは死に打ち勝ち、私たちの究極的な味方として、どんな試練においても私たちを支える。私たちはこの地上で、そして永遠の命においても、キリストに受け入れられた者として生きるのである。だからこそ、今日この礼拝においても、私たちは神の愛を思い出し、それに根ざした生活を心掛け、主の再来を待ち望むのである。