2024年02月11日「思いと言葉と行動と」
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思いと言葉と行動と
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- 小宮山裕一 牧師
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マタイによる福音書 12章1節~8節
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聖書の言葉
そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」マタイによる福音書 12章1節~8節
メッセージ
今日のメッセージでは、マタイによる福音書12章1節~8節を通して、安息日の真の意味と、イエスキリストが私たちに示そうとされる神の心を深く掘り下げたい。
この聖書の箇所は、安息日に関する規則を巡るイエスと弟子たち、そしてファリサイ派の人々とのやり取りを描いている。安息日の規則それ自体は神が制定されたものである。人々が労働から離れ、神を礼拝するためもの。この日には奴隷も労働から解かれた。そのようにして神に思いを向け、神に感謝をする。この感謝は神がこの世界を創造されたことに対する感謝と、神がイスラエルの民をエジプトから脱出させたに対する感謝。このために安息日は制定された。しかし、歴史の中で安息日が神に思いを向ける時から、定められた掟を守るものへと変質してしまった。イエス・キリストは本来の目的に戻そうとされたのである。
なぜ、キリストは安息日の軌道修正することができるのか。それはイエスキリストが、安息日の主であり、真の神であるから。この自らの権威を用いて、私たちに安息日の真の意味を教えてくれる。安息日は、単に物理的な休息を越えたものであり、神との関係を深め、神の臨在において安らぎを得るための日である。私たちの行動、言葉、そして思いが、神の憐れみに根ざすことの重要性をイエスは強調する。
この教えは安息日に弟子たちが麦の穂を摘んだ行為を巡って、イエスはファリサイ派の人々との間で議論を展開する中で行われた。このやり取りを通じて、イエスは安息日の規則が人々を束縛するものではなく、むしろ神の憐れみと愛を反映するためのものであることを示された。安息日の真の意義は、神との交わりと、神からの安らぎを享受することにある。
私たちは、イエスキリストに従う者として、安息日の規則を形式的に守ることに固執するのではなく、神との深い関係を追求し、神の憐れみと愛を生活の中で実践することが求められている。神が私たちに求めておられるのは、外形的な守りよりも心の憐れみである。この憐れみを通して、私たちは真の安息を見出し、神の前に真の礼拝者となることができる。
私たちはキリスト教会として、毎週日曜日を主の日として祝う。これはイエスキリストの復活を記念し、神との出会いを祝う日である。安息日の本質は変わらず、神との深い関係を築き、神からの語りかけを受け入れ、神に感謝し、神の憐れみに生きることにある。私たちが集う教会をイエスは「神殿よりも偉大なもの」といわれた。これは弟子とイエスの間にみられるものである。それは私たちが神を信じることだといっても良い。荘厳な神殿にまさるものが、イエスを弟子とするものとその民の中にある。この偉大な恵みを抱きしめ、日々の生活の中で神と共に歩むよう招かれているのだ。