2024年01月14日「聞く耳を持たぬもの」
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聞く耳を持たぬもの
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- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 11章20節~24節
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聖書の言葉
それからイエスは、数々の奇跡が行われたのに悔い改めなかった町を、叱り始められた。「災いあれ、コラジンよ。災いあれ、ベトサイダよ。お前たちのところでなされた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたことだろう。しかし、言っておく。裁きの日には、お前たちよりもまだティルスとシドンのほうが軽い罰で済む。カファルナウムよ、お前は天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところで行われた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで残っていたことだろう。しかし、言っておく。裁きの日には、お前よりもソドムの地のほうがまだ軽い罰で済む。」マタイによる福音書 11章20節~24節
メッセージ
マタイによる福音書11章20節から24節には、いくつかの街の名前が登場する。これらは当時の街であり、この街々に対してキリストが叱っている場面。叱るというのは一方的な断罪ではなく、悔い改めへの招きだ。これらの街はキリストの奇跡を目撃しながら、それをスルーした。奇跡とは「大きな御業」とも言うべきもの。キリストにより神の力が、神の御業が決定的に明らかになった。それなのに適切に反応しなかった街々に対するキリストの言葉。この言葉は霊的な無関心とそれに伴う深刻な結果について語られている。
20節からの段落はマタイ11章16節と17節からのつながりで理解したい。ここに記されている子どもたちの比喩を考えると、イエスの同時代の人々が神の呼びかけにどれほど無反応であったかが浮かび上がるだろう。イエスの宣教は喜び(神に愛されている幸い)と悲しみ(悔い改め)の両方をもたらしたが、多くの人々は適切に応じなかった。20節から24節にあるようにイエスによる奇跡は、神の王国への招きを示すものだったが、これらの町の人々には大きな影響を与えなかった。こうした無関心対する結果は裁き。
この聖書箇所をどのように考えたら良いのか。私たちはすでにキリストの十字架によって赦されている。かつての街々のように滅びに定められることはない。それはそうだ。しかし、だからといって、私たちが霊的に無関心であるとすれば、それこそ、キリストの十字架の犠牲、キリストを十字架につけてまで私たちを救おうとされた神の思いをないがしろにすることにならないか。これもまた罪深い行為だろう。
このような裁きにあうのはキリストを知らない人々だ、と切り捨てることもできない。聖句で上げられている街々はユダヤの街であり、旧約聖書を知っていた人々。その人々に対するイエスの嘆き。現代においても、私たちは神の働きにどのように反応しているだろう。日々の生活において、神の声に耳を傾け、神の導きに従うことが私たちに求められている。イエスの時代の人々の無関心は、私たちの霊的な状態を映し出す鏡のようなものだというのは言い過ぎだろうか。もちろん、私たちの信仰に完璧はない。だからこそ、私たちは自身の霊的な状態を省み、神の王国への適切な応答を模索したい。悔い改めと信仰を通じて神への回帰を目指したい。神の恵みと救いの手は常に私たちに差し伸べられている。