2023年12月31日「来たるべきお方」

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聖書の言葉

ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。
『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい。
今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』
ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」
マタイによる福音書 11章2節~19節

メッセージ

今日、私はマタイによる福音書11章2節から19節を深く掘り下げる。この聖書箇所では、洗礼者ヨハネがイエスに「来るべき方はあなたですか」と問い、イエスが彼の疑問に答える場面が描かれている。ヨハネの疑問は、私たち自身の信仰の探求にも重要である。彼は、イエスが実際にメシアであるかどうか、確かめる必要を感じていた。

この問いに対してイエスはどのようにお答えになったのか。彼はヨハネからの問いに直接答えていない。イエスが言われたのは「目の見えない人が見えるようになり、足の不自由な人が歩くようになり、重い皮膚病を患っている人が清くなり、耳の聞こえない人が聞くようになり、死者が生き返り、貧しい人が福音を告げ知らされる」ということ。これらはすべて、イエスが本当に来るべき方、救い主であることを証明する御業である。こうした働きの背後にはイザヤ書の預言がある。しかし、ヨハネや他の多くの人々は、このような救い主の姿を期待していなかった。彼らは、イスラエルを政治的な束縛から解放するような救い主を望んでいた。だからこそ、イエスの働きを見てもこのお方が来たるべきお方だとは思えなかった。イエスは、このような期待を超える形で来られた。

この箇所は、アドベントの時に読む伝統がある。クリスマスを前にして、イエス・キリストとはどのようなお方なのかを考えるのは理に適うものだ。本日はクリスマス後の礼拝。この箇所をクリスマスの後に読むことの意味はどこにあるのか。私たちはクリスマスをお祝いした。素晴らしい時だった。しかし、私たちはこう思う。キリストの恵みを祝うが、現実は変わらないと。本当にそうだろうか。確かに、目に映る姿は何も変わらない。しかし、私たちの現実認識が変わらなくても、キリストの恵みは確かに存在する。この恵みは、私たちが意識しているかどうかにかかわらず、確かにそこにある。

ヨハネはキリストを指し示す人物。そのヨハネの到来の後にキリストがこの世界に来られた。イザヤ書で預言されていた救い主。しかしながらこの世界は救い主に興味を示さない。むしろ、敵意すら向ける。そのような時代にあって、「知恵の正しさは、その働きによって証明される」とイエスが言われたことを思い起こしたい。知恵とはキリストのこと。働きは信仰者として行うべき忠実な歩みのこと。礼拝に出席し、神に祈り賛美をしながら歩む時、私たちはキリストを証しする一人ひとりなのだ。