2022年06月26日「何を聞くのか」
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何を聞くのか
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
ルカによる福音書 10章38節~42節
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聖書の言葉
一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」ルカによる福音書 10章38節~42節
メッセージ
イエス・キリストが旅のさなか、⼀つの村にお⼊りになった。そこには、⼆⼈ の姉妹が住んでいた。それが、マルタとマリアである。 このマルタが、イエス・キリストをもてなしたのであある。マルタも妹のマリ アも、イエス・キリストのことを以前から知っていた。尊敬していたのだろう。 そこで、マルタはイエス・キリストをもてなした。サービスをしたのである。⼀ ⽣懸命、イエスとその⼀⾏をもてなすマルタ。料理を造り、ワインを⽤意した。 着ているものを洗濯したかもしれない。そのようにして主イエスを懸命にもてな した。ところが、妹のマリアは、マルタの⼿伝いをせずにイエス・キリストの⾔ 葉に⽿を傾けたである。「主の⾜もとに座って、その話に聞き⼊っていた」(39 節)。彼⼥は話を聞いていた。聞き⼊るというくらいなので話に深く集中してい たと考えられる。 マリアは、⾜もとに座り、そして、イエスの話に聞き⼊っていた。この時代、 ⼥性が聖書の先⽣から話を聞くことはゆるされていなかった。その意味で、この マリアの⾏ったことは、⾮常に⼤胆である。しかし、イエスはこのマリアを妨げ なかった。そして、マリアはこのイエスの⾔葉を聞き⼊っていた。聞き⼊る。聞 いて、中に⼊る。そんなニュアンスの⾔葉である。そして繰り返しになるがこの ことをイエスがお許しになったのだ。 これはつまりどういうことか、というと、イエス・キリスト。このお⽅の⾔葉 は誰にでも、聞く権利があるということ。誰も排除されていないし、排除しては いけない、ということである。このお⽅のそばに座って、このお⽅にの⾔葉を聞 く。誰でもその機会と時が与えられている。そして、イエス・キリストはそのと ころの中⼼にいてくださり⾔葉のサービスをしてくださるのである。そしてそれ を、イエスは「取り上げてはならない」と42節でいってくださったのである。そ れほど、この⾔葉を聞くという権利を守ってくださる。そしてそれは良いこのな のである。 私たちは毎週、⽇曜⽇に礼拝に来る。それは、イエス・キリストが認めてくだ さっている。そのことを覚えたい。そしてこれこそが「必要なことはただ⼀つだ け」とイエスが⾔われたこと。御⾔葉に聴くこと。必要なこと。ただ⼀つのこ と。それは、イエス・キリスト。このお⽅の⾔葉に⽿を傾けることである。思い を向けることである。こころを注ぎ出すことである。これは、⼿を⽌めるという ことである。我々はスマートフォンから⼿を離してこのお⽅に思いを向ける。そ のときに、私たちの⽣き⽅は定まっていく。 マルタはこのところで、「せわしく」していた。せわしくとは、忙しく。周辺 にひっぱらられるという意味。この周辺に引っ張られているマルタに対してマリ アは⼀つのところに向かっていた。キリストの⾔葉に⽿と⼼を向ける。それは、 ⽣きた⽅が⼀つに定まる⽣き⽅。それは、様々な不安なことが多い世界にあって まことの平安を与えてくださる⽣き⽅なのである。