2022年06月19日「悲しみの先に」
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悲しみの先に
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- 小宮山裕一 牧師
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マタイによる福音書 5章1節~12節
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聖書の言葉
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。マタイによる福音書 5章1節~12節
メッセージ
イエス・キリストはいわれた。悲しむ人々は、幸いである。
この言葉を聞いて、心のそこからアーメンといえるだろうか。戸惑いがあるだろうか。それでも、イエス・キリストの言葉だからと、私達はしぶしぶ納得するのだろうか。それとも、悲しむ人々が幸いであれば良いな、と願いながら、実際はそんなことはないとしらけた思いでこの御言葉を読むのだろうか。
もしくは、この御言葉に怒りを覚えるかもしれない。今、この世界は悲しみが増えている。おそらく、戦後の歴史の中でもっとも悲しみが増えているのではないか。ウクライナの難民が増え続けている。ニュースにもなっている。コロナはどうだろう。コロナは収まりつつあるが、直接、病気にかかること以外にも様々な影響がでている。経済的な苦境に置かれている人もいる。
そのような人々に、気安く、悲しむ人々は幸いだ、といえるのだろうか。この問が私達の前には横たわっている。聖書にこう書いてある、といって親切心から悲しんでいる人に幸いだ、といったらどうだろうか。もう2度と口をきいてくれないかもしれない。怒りで殴られるかもしれない。
悲しむ人々が、幸い。これはにわかには信じられない言葉ではないか。そして、だからこそこの一句は聖書らしいといえる。聖書は私達の常識とかなんとなく考えていることにあえて挑戦する。そして、それは無謀な挑戦ではない。特に山上の説教は、イエス・キリスト、この御方が御語りになった言葉。それはつまり、私達が自分の中でこの御言葉を咀嚼するのではなく、神がおかたりになった言葉として受けとる。できるかできないかで考えるのは辞めよう。どうして主イエスはこの言葉をお語りになったのか考える。その時に、この御言葉の本当の意味がわかってくるのではないか。悲しむ人々は、幸いである。この言葉がただの強がりやあきらめではなく、人生に深く根を下ろす言葉となるのではないだろうか。
悲しみ。これはできれば避けるに越したことがないことである。不遇や不運といってもよいだろう。そうしたものが少しでもない。そうした人生を送ることができたらなんと幸いだろうか。
その一方で、悲しみは私達にとって身近なものである。悲しくなるということがある。出会いがあり、別れがある。別れは悲しいものである。それは避けることができない。失うものが多いのです。それは悲しくもある。
その悲しさを抱いて私達は生きていく。それは避けられないこと。そして、主イエスが悲しむ者は、幸いである、という時に、私達はイエス・キリストにあって悲しみを自分の人生に迎えることができる。
しかし、キリストは言う。「あなたは悲しんで良いのだ。悲しみを必要以上に避けたり、見て見ぬふりをする必要はない。あなたの人生において起こる悲しみを私はみている。知っている」。
イエス・キリストは悲しみを引き受けてくださる。それは、いつの日か、新しい天地において、このお方があなたの涙をぬぐってくださるのである。(黙示録21章3,4節)