2022年06月12日「幸福宣言」

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聖書の言葉

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。マタイによる福音書 5章1節~12節

メッセージ

この説教の聞き手はまず第一に弟子達である。そして、その弟子達を囲むようにして、群衆と呼ばれる人々がキリストの言葉に耳を傾けていた。この両者に対して、キリストは口を開いた。そして、教えた。

 この教えた、をある聖書は教え始められた、と翻訳している。この言葉遣いは良い。主イエスは教え始められたのだ。そして、この教えたはそのことがらが継続する様子を描いている。非常に大胆にこのようにいうことができるのではないか。イエス・キリストは今も、教えている。教え続けている。その教えはだれにむかっているのだろう。それは、今、この聖書を開く、あなたにむかっている。私達は、イエス・キリストから教えを受けている一人一人なのである。

 キリストは今も、私達に語りかける。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」。 貧しさ!これは喜ばしいことか。おめでたいことか。そもそも良いものなのだろうか。山上の説教ので主イエスがおかたりになるところの貧しさ。この貧しさはもっと徹底的なものである。この貧しさを乞食、物乞いのような貧しさだ、という。宗教改革者のルターがそのように理解したのである。これは本当に、大変なこと。美徳なんていうのんきなものではない。まさに、生きるか死ぬかなのである。

  貧しさ!貧しいことは惨めな思いや卑屈さを生じさせる。貧しいから何かをあきらめる。これは本当に惨めなことである。そして、生きる気力を失うことになる。貧困が自殺と結びつくのはそのため。貧しさは肉体的な困難さのみを意味しない。それは、心、存在と深く結びつく。つまり、貧しさは絶望や失望を引き起こす。これが貧しさの本質ではないか。それは経済的な貧しさに留まらない。感情的な貧しさというものあるのではないか。それらはすべて、私達を落胆させる。生きる力を削ぐといってもよい。

 そのような貧しさを感じる。それが、幸いだ、と主イエスはいうのである。このところで主イエスは鋭く2つのことを語る。1つは、どう考えても、ありがたくない貧しさ。これが幸いに通じる道にむかっているということである。キリストは、この貧しさに幸いを見出しているといってもよい。まったく、私達人間とは見ているところが違う。そして、貧しい人に対して、幸いな道があるといってくださる。その一方で、この貧しい人が幸いというメッセージは、自分は豊かで幸せだと錯覚している人々に対して、深い反省を求めるものである。

 心の貧しい人々は幸いである。なぜだろうか。この御言葉の説教をを準備する中で1つのすてきな言葉にであった。リジューの聖テレジア、という人の言葉。この人がこういう言葉を残している。「私は空の手で神の前に立ち、その手を神にむかって開いていよう」つかみ、つかんだらはなさいのではない。開き、そして与える。そのようにして、神に手を開くとき、神は豊かにあたえてくださる。貧しいと失いたくない。それは手を握るということ。その手を開くとき、自らのもっているもの、わずかなものを手放すことができる。その時、神が豊かにあたえてくださる。これが、心の貧しい人の幸いなのではないだろうか。手を開く、受けとるということである。握った手を開いて恵みに身を委ねるものは幸いだ。