2022年06月05日「権威ある教え」
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権威ある教え
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- 小宮山裕一 牧師
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マタイによる福音書 5章1節~12節
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聖書の言葉
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。マタイによる福音書 5章1節~12節
メッセージ
本日はペンテコステ。ペンテコステは聖霊なる神が地上に来られたことを御祝いする日。イエス・キリストは死んで復活し、40日間地上で過ごされた。その後天に昇られた。天から聖霊を送って下さり、一人一人をとらえてくださる。そして、この聖霊が与えられた人々によって教会が誕生した。聖霊は教会を産み出す。それは、一人一人に信仰を与えることによって。聖霊が働く時、私達は聖書を知り、その意味を理解し、神を信じる信仰に導かれていく。聖書の教えは聖霊の働きがなくては信じることができない。教会に連なり、礼拝をささげ、聖書の教えを聞く時に、私達は聖霊の力の中にいる。
聖霊は私達一人一人に働いて、みことばを悟らしめてくださる。それが聖霊の働きである。これからご一緒に山上の説教とよばれる一連の教えを聞いていく。この山上の説教は色々な教えからなる。聖霊によりたのみながら味わって参りたい。
説教とは何か。日本語聖書で説教と翻訳されている言葉はいくつかのバリエーションが存在する。その中心的な意味は「宣べ伝える」。もう少しわかりやすく告げ知らせる、といっても良い。つまり、説教とはこれは良い知らせ、ありがたいしらせなのである。山上の説教も、やはり、ありがたい知らせなのだ。
この山上の説教を御語りになったのは、何を隠そう、イエス・キリストなのである。わざわざこのことを申し上げたのは意味がある。説教は何が語られているのか、はとても大事。しかし、誰が語ったのかもこれまた大事。イエス・キリストが、人々に御語りになった。キリストは人々を教え、人々を癒やすお方。そして、マタイによる福音書がこれまで伝えてきたのはこのイエス・キリストがユダヤ人の王であり、神の子であるということ。王であり、神。そのように、私達の上にたつ御方として、イエス・キリストはおかたりになった。
このことを忘れないようにしたい。この言葉がイエス・キリストという御方と離れるとき、山上の説教はただ単に高い要求を求めるものになる。高潔な生き方を求めることにある。もちろん、それは良いことである。しかし、より大切なことは、この教えを主イエスの愛の中で受けとることである。それは、当然、この教えを真剣に受け止めていくことになる。しかし、たとえすべて受け止めきれないとしても、祈りながら、神さまに助けてもらいながらこの教えを生きていく。なによりも、自分にこの教えを行う力はないけれども、主イエスが力を与えてくださることを信じて歩むのである。
そして、このお方の言葉には権威がある。7章の最後にはキリストの説教を聞いた人々の様子が描かれている。それによれば人々はこのお方の権威を認めた。その権威は新しいものを生み出す力。何かを生じさせる力。それを人々は感じ取ったのである。キリストはまさに、この説教を通して一人一人に神の福音を生じさせてくださる。