2022年05月29日「イエスによる癒し」
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イエスによる癒し
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 4章18節~25節
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聖書の言葉
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。マタイによる福音書 4章18節~25節
メッセージ
本日の聖書箇所は、癒やしをテーマにしている。癒やしというのは苦しめられていた人々がその苦しみから解放されることである。より積極的にいえば、それは健やかに生きるということではないか。それは健康だといってもよい。健康というと、肉体的な健康を指す。しかし、私たちは心を持つ。心も体も両方とも健康だと良い。しかし、肉体はいつかは健全さを失う。そうだとしても、心が健やかなら、それは本当に恵みである。
反対に、身体は健康でも心は健やかさを失っているという人もいるだろう。聖書によれば神は私たちに生きるようにと命じている。私たちの命、生きること。これは肯定されている。生きよ、というのが聖書の基本的なメッセージである。そして、教会はこのメッセージを大切にしている。さきほど読んだ十戒の中にも殺してはならない、という戒めがある。これは殺害。これは生きるようにという聖書のメッセージの正反対に属するもの。神は命の神。神は一人一人に元気に健やかになってもらいたいと願っている。それが、私たちが礼拝している神。イエス・キリストが人々を癒やすのはこの命の神だからである。そしてあらゆる癒しはキリスト抜きには起こらない。そしてこのことは私たちの信仰にとってとても大切なこと。キリスト教信仰は、その名のとおりイエス・キリストを信じる信仰である。中心はこのお方を信じること。そして、そのことを通して私たちは癒やされる。すでに癒やされているといってもよい。
そのためには、やはりこのお方の声を聞かなければならない。聖書箇所に登場する弟子達そして群衆もまず、イエス・キリストの声を聞いた。教えを受けた。癒やされるということはこのお方の声を聞くところから始まるのである。福音書が記すイエス・キリストの癒やしの記事をみると、あるときはキリストは手をさしのべ、あるときは触る。しかし、やはりこのお方の力ある言葉。この言葉によって人々は癒やされていくのではないだろうか。
なんどか申し上げているように、4章12節から25節は山上の説教とよばれる主イエスの説教の前段階だということができる。そして、5章から教えが始まる。この教えの後、8章を見ていただくと、3つの癒やしの記事が続く。この関係性を覚えたい。イエス・キリストの癒やしは、教えと無関係ではないということ。
そして、キリストはただ教えただけでなくイエス・キリストは神の国の福音を宣べ伝えた。癒やしが教えだけでなく、神の国の福音ともセットになっている。福音とは神の国が近づいたということ。それは、神とこの私の距離がグッと近づいたということ。そのことを罪の赦し、という。本来、私たちは神から遠い存在であった。その私が神に招かれた。神に従うものになった。それは罪が赦されたから。キリストが十字架によって罪を赦してくださったから。これが、福音である。そのためには神に近づかなくてはならない。悔い改めてといってもよい。自分の好き勝手にあるくのではなく、神と共に歩む。それこそが、すでに私たちにとって癒しである。そしてこの神の国に入れられている時私たちはもうすでに神の癒しの御手の中にある。