2022年05月22日「名前を呼ぶ幸い」

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聖書の言葉

 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」マタイによる福音書 6章5節~15節

メッセージ

主の祈りは、二つにわけることができる。全部で6つの祈りからなる。前半の3つと後半の3つに分けることができる。そして、前半の3つの祈りを神さまに対する祈り、後半の3つの祈りを私たち人間のための祈りということができる。

 前半の祈りは、御名が崇められますように、御国が来ますように、御心が行われますように、という3つの祈りである。9節の後半から10節にかけて。「御名が崇められますように。 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも」。

 まず主イエスは祈るにあたってこの3つを祈るようにと教えた。日本語訳には登場しないが、じつはこの3つの祈りには「あなた」という言葉がついている。あなたの御名が。あなたの御国が。あなたの御心が。このことは大切。誰の名が崇められるのか。誰の国なのか。誰の思いが現実するのか。 

 私たちは、あなたーつまり神のー御名が崇められますようにと祈る。このところで改めて考えたいのは、神には名があるということである。名もなき神が聖書の神ではない。神には名がある。名があるというのはどういうことだろう。聖書の時代、名前というのはもっとその人自身と密接に関わっている。名が存在と深く結びついている。聖書において名というのはおそれすら生じさせることがあったようである。あまたある名の中でも、もっとも恐れと尊敬をあつめたのが、神の名なのである。

 この名前は神と一体的である。ヘブライ人への手紙6章10節にはこう記されている。「6:10 神は不義な方ではないので・・・神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません」。神の名のために示したあの愛、という言葉が目を引く。神の愛と名前は密接に関係している。救いの出来事を引き起こしてくださる神。その神の名を呼ぶということはこの救いに預かるということなのである。ある人は、このことを「神の名前は神自身である」とすら言っている。御名を崇めさせたまえ、という時、私たちは神の名を呼ぶのである。

 この神の名を崇める。これは「聖とされますように」という意味。神の聖さは神が人間とはくらべものにならないお方ということ。恐れ多いお方。旧約の人々は神を直視することができなかった。そのお方の名を呼ぶ。それは、神を神とするということではないか。

 私たちはこの祈りを祈りながら、神を神とする。それは、自らを神としないということであり、神を礼拝すること。神をもっとも聖とするときは礼拝すること。御名を崇めさせたまえと祈る時、私たちは自分自身が、隣人が、全世界の人々が神を神とすることができるようにと祈る。神の名を呼ぶことができるようにと祈る。