2022年05月15日「本当の師匠」

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聖書の言葉

イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。マタイによる福音書 4章12節~22節

メッセージ

イエス・キリストはガリラヤに滞在された。このガリラヤにはヘロデという領主がいた。この人は暴君であり、実際に洗礼者ヨハネはこの人によって殺されてしまった。その意味で、ガリラヤは非常に暗いところである。その暗いところに、イエス・キリストがやってきた。このことは、旧約聖書のイザヤ書で予告されていたこと。闇が光が周りを照らす。それはキリストのお働きによる。イエス・キリストもまたまわりを照らした。そのことをイエス・キリストはこう表現する。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。

 これは救い主としての第一声。その最初の声をあげた主イエスは弟子達を集めたのである。そして、この弟子達がイエス・キリストの旅のお供にになった。キリストの傍らにいた。最後の晩餐の後、イエス・キリストが捕まり弟子達が逃亡するまで、弟子達はキリストと一緒にいたのである。その意味で、福音書は主演、イエス・キリスト、助演、キリストの弟子達といってもよい。

 つまり、マタイによる福音書はこれから表には出てこないが、いつも基本的には弟子達がイエス・キリストの横にいた。それでは、弟子達は何をしたのだろうか。まず、弟子達は聞き手。イエス・キリストの教えに耳と心を向ける。5章から始まる山上の説教は、イエス・キリストが弟子達に対してお語りになった教え。また、イエス・キリストが敵対する人々に対して論争するときも、すぐ近くに弟子達がいたのである。 弟子達は、失敗したり、とんちんかんなことを言ったり、主イエスの言っていること、やっていることを理解していなかったり。そんな姿で福音書は描く。しかし、イエス・キリストの教えを間近で聞いていたのは紛れもなく、弟子達であった。いくら、イエス・キリストが素晴らしい教えを授けても、聞く人がいなければ意味がない。その意味で、弟子達は重要な役割を担っている。弟子にとって、なによりも大切な役割は師匠の言葉に耳を傾けることである。

 次に、弟子達はイエス・キリストの協力者となっている。少し先になるが、10章には弟子達がキリストにから派遣される様子が描かれる。これは、今日の聖書箇所にもあるように、人間をとる漁師としての働き。それは、宣教の働き。人々を神のところにくるようにという招く役割。つまり、キリストの片腕となって活躍したということ。

 いくらキリストが一生懸命、教えてもそれを聞き、教えを生きる人がいなければキリストの働きは広がらない。キリストのすばらしさを伝える人がいなければ福音は伝わらない。弟子達はキリストにとって不可欠な存在といってもよい。

 キリストの弟子となったのは欠けの多い不十分さの残る人々だった。その不十分さをキリストはご存じである。それでもキリストは招いてくださる。この招きに応じるか。断るか。道は二つに一つである。