2022年05月08日「天の国が今、ここに」

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天の国が今、ここに

日付
説教
小宮山裕一 牧師
聖書
マタイによる福音書 12章34節~56節

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聖書の言葉

イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。マタイによる福音書 12章34節~56節

メッセージ

 12節に洗礼者ヨハネが登場する。この人は以前、イエス・キリストに洗礼を授けた人。そして、このヨハネは悔い改めを人々に告げ知らせた。悔い改めとは、心を変えて神を向くこと。道を間違えていたのに気付いて、正しい道を歩むことだといってもよい。

 この洗礼者ヨハネが捉えられた。そのことを聞いた主イエスはガリラヤに退かれた。そして、ガリラヤで宣べ伝え始めた。キリストがガリラヤに来たのは旧約聖書のイザヤ書によってすでに予告されていた。そして、キリストは悔い改めを求め、天の国の到来を宣言した。天の国。これは死んでから行くところではない。マタイによる福音書では、神ということばが避けて使われる。つまり、天の国というのは神の国。その神の国が近付いた。

 神の国とは、神がの統治。神が治めておられる場所のこと。神が神として君臨するところである。その神の国、すなわち天の国が近付いた、とキリストはいわれたのである。天の国は近付いた。これは、日本語にするのが難しい。天の国は近付いてきた、という言い方がより正確。天の国が来た。これは、固定された領土のある国ではない。そうではなく、イエス・キリストの到来によって、まさにぐっと近付いてきた、神の支配。それが神の国。つまり、これはなにかそこにあるものというよりも、具体的な状況を指すことば。

 こうしたことばを行動名詞という。神の国は名詞である。決して何か動きがあるわけではない。しかし、実際にあるのは神の支配である。それが、神の国なのである。ある神学者は神の国をこのように説明する。

 「イエスが神の国について語るとき、彼はまったく単純に、神を告知しているのです。世界と歴史において具体的に働く力を持ち、いま現に働いている神、生ける神を告知しているのです。イエスは私達に、神は存在している、神は真に神である、神は世界を手の内に握っておられると語っているのです。この意味で、彼の使信はまったく単純であり、完全に神中心です。彼の使信の新しさ、その独特さは、神は今働いておられる、今この時において、神は全てを超えた、まったく新しい仕方で歴史の中において自らを歴史の主、生ける神として現されると私達に告げているところにあります」。

 天の国、この文章の中では神の国となあっている。これは生ける神が、確かに、今、この時お働きになっている。そのことを伝えている。この神は、私達のところにきてくださった。非常に、生々しい現実、実際に血が流されようとしている。その世界に、生きる神がきてくださった。それは、イエス・キリストによって実現した。

 ずいぶんと古い時代から、イエス・キリストのことを神の国それ自身と呼ぶことがある。神の国とはイエスキリストなのだ。逆にいえばイエス・キリストをみれば神の国がわかるというのである。そしてキリストの教会は神の国のもっとも鮮やかな現れなのだ。神の国はどこにあるのか。今、ここに。

だからこそ、この神の国はキリストの教会と切っても切り離すことはできない。キリストの教会にこそ、この神の国がもっとも鮮やかにあらわれる。私達は様々な生の感情を抱えてこの場に集う。しかし、その私達の間にすでに神の国が現実になっている。神がまさに、今、この時、働いておられる。

この神の力を信じ、神に信頼する。それが、神に思いを向ける。悔い改めななのだ。

イエス・キリストはもっとも暗いところに来た。そのことによって光をもたらした。このキリストの取扱に私達は身を委ねたい。この光が差し込んできたら心を開こう。悔い改めよう。そのような私達のところに、天の国は確かにきている。

天の国は、今、ここに。