誘惑(二)
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 4章1節~11節
音声ファイル
聖書の言葉
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。
すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。
更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。マタイによる福音書 4章1節~11節
メッセージ
イエス・キリストが荒野で断食をしていると誘惑する者がこのお方に近づいた。誘惑する者はサタンとか悪魔とかよばれる。人々から神を遠ざけようとするのがこのサタンの働き。この誘惑は全部で3つ。2つ目の誘惑は神殿の屋根の端に立たせて、飛び降りたらどうだ、というもの。サタンは巧妙に、詩編91編のみことばを引用して、もし落ちても神さまが助けてくださる。なぜならば、聖書に書いてあるからだと述べる。これはどういうことか。イエス・キリストは神の子、救い主である。それならば、この神殿の高いところから降りてみろ。神が助けてくれるに違いない。そうすれば、みんなお前のことを信じるようになるだろう、というのである。このところでサタンがイエス・キリストに問うているのは、人々が奇跡をを目撃すれば神を信じるようになるに違いないというのである。神を信じるということに、こちらから条件をつける。これこれをしてくれたら、神を信じてやる。神に対して、あなたを信じてやるというのに等しい。これは言ってしまえば上から目線の態度。もし、キリストが高いところから飛び降りてそれをみた人々がこのお方を信じたところで、それは奇跡的なできごとを信じたということになる。神を信じたということにはならない。
そもそも、信じるというのは何か良いことがあるから信じるのか。そうではない。まず、信頼がある。そして、その先にいろいろな良いことがある。それが信じるということなのである。神は愛なので、この信じるを愛すると置き換えてもよい。相手を愛する時には、相手が自分に何をしてくれるのかを考えるだろうか。そんな打算的な愛は本当の愛とはいえない。しかし、時に人は神に対して、何かよいことをしてくれたら信じてやろう、というのである。なぜか神に対してはこのような態度をとってしまう。これは、考えてみれば失礼な話である。何かしてくれるから信じるというのは神に対してあるべき姿ではない。まずは神を信じることから始める。
それにしても、サタンの言っていることはなかなか見事ではないか。人間誰しも、もっとわかりやすく神の御業が示されればよいのに、と思うことがある。病気の時に、この病気が奇跡的になおればもっと神を信じるのに、とかきっとまわりの人も神を信じるのに、という願いである。しかしながら、救いはこうしたかたちではあたえられない。救いはあくまでも、イエス・キリストこのお方の十字架でしか与えられない。だからこそ、キリストはこの誘惑を退かれたのである。そのような仕方で神を信じても意味がない、というのである。神を信じるのは、このお方の十字架の御業、十字架の道のみである。だからこそ、イエスは7節にあるように、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。神を信頼しろ、そこにこそ救いがかかっている。あなたは奇跡を起こして下さるから神を信じるのか。それともただ十字架の故にキリストを信じるのか。