2022年04月17日「死者の中からの復活」
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死者の中からの復活
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 28章1節~20節
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聖書の言葉
さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。
さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」マタイによる福音書 28章1節~20節
メッセージ
本日はイースター。イエス・キリストが死者の中からよみがえったことを御祝いする日。
この説教を準備するにあたって、一つの本を読んだ。人々がどのように復活を信じたのか、復活を考えたのかということがその本には記されている。その本の帯にはこう書いてある。「信仰の根幹・最大の希望にして躓きの石」。復活の優れた解説だと思う。
信仰の根幹。キリスト教は何を信じているのか。それは、イエス・キリストがよみがえった。そのことを信じている。さきほど告白した使徒信条にも「死人のうちよりよみがえり」とある。死人の中からキリストがよみがえった。これを信じるか信じないかはあなた次第である。しかし、これにキリスト教信仰の全てが掛かっている。だからこそ、信仰の根幹なのである。
しかし、これが躓きの石である。そのことが原因でキリスト教を信じることができない人が大勢いる。人は死ぬ。それはそうだ。しかし、人は生き返らないではないか。これもその通りだ。しかし、イエス・キリスト、この御方がただ一人、歴史の中で復活した方だと聖書はいうのである。そのことを信じる。しかし、これは信じるのは難しい。理性で、頭で考えてもよくわからない。これは信じるしかない。キリストがよみがえった。復活した。そのことを信じた人々の歴史が、この世界には確かに存在している。そして、その世界に生きている人々を信仰者とかクリスチャンというのである。
イエス・キリストは復活した。墓から出られた。そして、復活のイエスとして、墓にやってきた女性達にであったのである。9節にはこの女性達に「おはよう」と挨拶する女性達の姿が描かれる。このところも、非常に味わい深いと思う。まず、このおはよう、という挨拶。これは平和があるようにという意味の言葉で、実際に人々の間で挨拶として用いられていた言葉である。イエスは死んでいたのに復活した。それなのに、おはよう、と挨拶する。とても興味深い。朝散歩してそのあたりで顔を合わせて、そしておはよう、と挨拶しているかのようにも思う得る。私はイエスのひょうひょうとした姿をみる。イエス・キリスト。この御方は神である。この御方からすれば、復活するなんてまさに朝飯前なのである。周りの悲しみ。女性達も、弟子達もキリストが死んでしまって悲しんでいた。そんな悲しみをキリストはよく知っていただろう。それでも、おはよう、というのである。そんなに悲しむなよ、僕は復活してここにいる。
そして、このおはようという言葉は、その人のことをキリストが知っている、見つめているということなのではないか。視界に入らない人に人は挨拶をしない。もし、視界にはいっていながら挨拶をしないといすればそれは存在の否定といってもよいのではないか。
ある人はこのおはよう、を「生きて良い」という意味ではないかとすら言っている。確かに、キリストからおはようと声をかけられる。キリストの世界にこの私が入れられているというのはそれくらい意味があることではないか。私は生きいる。活きて良い。復活のキリストの命に生かされている。