2022年04月10日「十字架につけられた王」
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十字架につけられた王
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 27章27節~44節
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聖書の言葉
それから、総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った。
兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。そして、ゴルゴタという所、すなわち「されこうべの場所」に着くと、苦いものを混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはなめただけで、飲もうとされなかった。彼らはイエスを十字架につけると、くじを引いてその服を分け合い、そこに座って見張りをしていた。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。折から、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右にもう一人は左に、十字架につけられていた。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。マタイによる福音書 27章27節~44節
メッセージ
本日より受難週が始まる。イエス・キリストの苦しみに思いを向けて参りたい。本日の聖書箇所は、目を背けたくなるような描写の連続である。キリストがかわいそうになっていくる。しかし、聖書は決してキリストに同情するようには求めていない。聖書が描くのは罪の姿だ。私達はここに、罪の姿を、キリストがまっすぐ見つめていた罪を見る。罪は、目にみえない。しかし、時に、それは外に現れる。そうした罪をキリストは見ている。そして、この罪を解決するために、キリストは十字架にむかわれた。
十字架は死刑の道具である。その死に自らむかっていく。それが、キリストが行ったことである。キリストは死を滅ぼした。あらゆる力の中でもっとも強い力を、ご自分が十字架におかかりになり復活することで滅ぼしたのである。
キリストはこのところで侮辱され、罵られた。そして、たたかれた。本日の聖書箇所の前のところをみると、キリストは鞭でうたれた。また、この御方の来ていた服をわけあったという記事もある。これは、奪われたといってもよい。また、キリストは神に救ってもらえばよいともいわれた。これは神に対する無理解である。罵られ、たたかれ、むち打たれ、神を否定された。これが罪の姿である。悪の顕在化、外在かといってもよい。悪が目に見える形であらわれたのである。外にでてきたといってもよいだろう。
罪というと、私達は自分の罪の問題だと思いがちなのではないか。私達が罪人であり、神から離れている。それはそのとおりである。しかし、罪を自分の問題だけに留めておくことはできない。罪は、目にみえる形で、具体的な力で現れる。痛みとなって、あらわれる。世界に、この私と隣人の間に。
キリストはこの罪を見つめていた。今、私達はこの罪が非常にリアルに受け取れる時代を生きている。この罪が目に見える形となっている。私が罪人である、というこの私の罪を超えて、この世界を覆う罪というものを見る。
この力に対抗するために、キリストは十字架にむかったのである。罪の力に、悪の力に対抗するために。そして、この力にとらわれている人々に開放をつげるために。光となるために。だから、この御方は苦しみを耐え忍ばれた。そしてキリストが王である。あらゆる力にまさる王である。人々はいみじくもこのところでユダヤ人の王、万歳といってキリストを侮辱した。みせものにしたのである。彼等はまったく王とはほど通い、一人の犯罪人を王としてまつりあげた。それを楽しんでいる。心底、バカにしている。彼等は赤い外套を着せた。そして茨で冠をつくって頭に乗せた。また、右手に棒をもたせた、と書いてある。これらはすべて王のパロディ。しかし、罵る人々の思いを超えて聖書はこの御方がほんとうの王であることを伝えている。それがはっきりするのはもう少し後、復活の時。
このところでキリストは、最も苦しい、究極に低いときでさえも王であられた。それがキリストなのである。人々が王であることを排除しても、この御方はどこまでも王なのである。このお方をあなたは王とするか。あなたは誰を王とするか。力ではなく、低くなることを選ばれた王を王とする生き方をあなたは選んでいるだろうか。