2022年04月03日「誘惑」

問い合わせ

日本キリスト改革派 綱島教会のホームページへ戻る

音声ファイル

聖書の言葉

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。マタイによる福音書 4章1節~11節

メッセージ

本日の説教題を誘惑、とした。この聖書箇所は荒野の誘惑と呼ばれる箇所である。誘惑。これは避けるべきものである。誘惑から守ってください。それは私たちの祈りである。

なぜ、誘惑から守ってもらわねばならないのか。誘惑の先には罪がある。それでは、イエス・キリストの誘惑に罪があったのだろうか。このお方の誘惑に罪は見いだせない。このお方は誘惑に負けて罪を犯すことがなかったからである。それならばなぜ、このお方は誘惑をうけられたのであろうか。

このお方の誘惑。それは、神がこのお方を誘惑されたのである。神が誘惑するというのは適切な言葉遣いではないかもしれない。他の聖書で、この誘惑が試練だとか試みと理解されている。その方が良いかもしれない。神が、このイエス・キリストをいわばテストしたのである。

それはなぜか。このお方が神の子としてふさわしいかどうかを神がテストしたといってもよい。3章13節からの段落でイエス・キリストが洗礼を受けられた場面をご一緒に読んだ。キリストは天からの声によって、神の子であるということが人々に示された。そして、キリストはこの荒野で神からのテストを受けられたのである。神から揺さぶられたといってもよい。訓練、といってもよい。この荒野の誘惑の記事は、キリストと悪魔のやりとりが記されており、そこに思いを向けがちである。しかし、1節に霊とある。これは、聖霊のこと。神がその力をもって、キリストを荒野に導かれたということ。主イエスはなにも、悪魔にそそのかされて荒野に来たわけではない。そうではない。神が導かれたのである。

そして、最後の11節に天使たちがきてイエスに仕えた、とある。天使とは神の使いのこと。神の守り、という意味で理解するのがよい。つまり、この出来事は最初と最後に神の力、聖霊と神の守り、天使が登場する。神という大きな枠に囲まれているといってよい。それは、この誘惑が神とは決して無関係ではないということ、だからこそ、これはより積極的に試練といってもよいのである。

もちろん、これはイエス・キリストもまたこのことをよくわかっておられた。キリストも自ら、この誘惑・すなわち試練を受けられたのである。だから、誘惑を受けるため、とある。そして、この誘惑は神に関することである。何か罪を犯すというのではない。それは、つまり、神から離れるか神から離れないか。この誘惑だといっても良いのである。だからこそ、主イエスは10節で主を礼拝すると高らかに宣言されるのである。そのような仕方で、誘惑を退かれたのである。主イエスが、ここでなさったこと。それは神から離れないということではないか。いろいろな教えが記されているが、まとめると神から離れない。これが主イエスが受けられた誘惑であり、試みなのである。それは、このお方にとっては十字架の道。ここから離れるといってもよい。主イエスは十字架にお架かりになるために、救い主としての働きを始められた。悪魔の誘惑は、キリストをこの十字架の道から遠ざけようとする試み

である。それはすなわち、人々を救いから遠ざけようとする試みでもある。キリストはその誘惑を退かれた。私たちの救いのために。