2022年03月20日「イエスの受洗」

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聖書の言葉

そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。マタイによる福音書 3章13節~17節

メッセージ

教会の一つの役割が洗礼を人々に授けること。それでは、なぜ洗礼を受けるのか。それは洗礼が良いものだからである。洗礼は教会の入会儀式であり、天国への切符。私たちは、この地上という名のホームで、天国行きの電車を待つ存在だといってもよい。洗礼を受けたというのは、まだ天国にいってないのだけれども、もう、天国に行くための切符を手にしているといいうこと。

 このように、洗礼というのは、私たちが確かに天の国に行く。そのことの保証である。しかし、それ以外にも、私たちがなぜ、洗礼を受けるのか。そのことについて考える時に、一つにはイエス・キリスト、このお方が洗礼を受けられた。だからこそ、私たちもまたこの方にならって洗礼を受ける、ということでもある。

 キリストご自身が、洗礼を受けることは良いことだ。そのようにいってくださっている。洗礼。これは、神から遠く離れたものが神とお近づきになるしるしである。それは、罪のある私たちがなすべきこと。しかし、イエス・キリストは罪のないお方である。それでも、このお方が洗礼を受けられたのである。洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた。そして、そのことは、15節の言葉によれば、ふさわしい。正しいのだと。良いことなのだ、とイエス・キリストはいうのである。

 このところでキリストは自らの模範となってくださっている。洗礼はすばらしい。そのことを伝えるために、ご自分から、受ける必要のない洗礼をうけてくださっている。

 次に、イエス・キリストが洗礼を受けられたということを、主イエスにとって新しいスタートだったという点からみていきたい。

 イエス・キリストは、それまでガリラヤのナザレという街で大工をしていた。大工というのは中産階級である。父親のヨセフも大工だったのでその後を継いだのである。しかし、このイエスが、実は救い主だったというのが聖書のメッセージである。それまで、大工だった人が、いきなり救い主となる。こんなことはありえないことである。

 実際に、イエス・キリストが救い主としてお働きになったときに、イエス・キリストを救い主として見ることができなかった人々がいた。それは地元の人である。彼らは、かつて自分たちと一緒に生活をしていたあのイエスがまさか救い主であると信じることができなかったのである。

 しかし、イエス・キリストは生まれた時から救い主。その救いはこのお方が十字架につけられるという仕方によって罪の赦しが与えられた。

 その救い主としてのスタートが、この洗礼だったのである。私たちは救い主になるわけではない。しかし、洗礼は新たなスタートである。それは神から役割をいただくということ。使命をいただくということ。この使命に生きる時に私たちの命は輝く。