2022年03月06日「天の国は近づいた」
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天の国は近づいた
- 日付
- 説教
- 小宮山裕一 牧師
- 聖書
マタイによる福音書 3章1節~12節
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聖書の言葉
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」マタイによる福音書 3章1節~12節
メッセージ
マタイによる福音書はイエス・キリストが洗礼(バプテスマ)を洗礼者ヨハネから受けられたことを記している。
この洗礼者ヨハネは、時代的にいえばイエス・キリストど同じ時代の人である。しかし、このヨハネはむしろ、旧約聖書最後の人物といっても良い。旧約聖書はイエス・キリストを目指す。この洗礼者ヨハネもまた、イエス・キリストを目指した。その最後の人物である。旧約と新約の中間にたっている、といっても良いであろう。このヨハネによって「悔い改めよ、天の国は近づいた」という言葉が響いたのである。
このヨハネが求めたのは悔い改め。天の国が近づいた。だから、悔い改めるように、というのである。悔い改めについて、触れておく。悔い改めは神に方向転換をすることである。神の方を向くということ。人間はどこまでも、自分を向く。そこから、神の方を向くようになる。それが、悔い改めである。
しかしながら、問題はどのようにして悔い改めるのかということである。人間は悔い改めることができるのか、という問いだといってもよい。答えはノー、である。人間は自分の力では悔い改めることはできない。
だからこそ、天の国は近づいたのである。自分の力ではどうすることもできない人間に変わって、天から近づいてきたのである。天とは神、といってもよい。神の方から、近づいてきて下さった。だから、方向転換が可能となったのである。洗礼者ヨハネが告げたのはこのメッセージである。
この方向転換は、新しく生まれる、新生ともいうべきできことである。ある人は、悔い改めを「全存在が葬られること」と表現した。それが悔い改め。自分の中にあるあらゆる部分が焼かれ、きれいに洗い流されること。天の国と私たちはそれくらい遠い。全存在が葬られなければならないほど、遠い。しかし、神が近づいてくださったことによって、この事が実現するのである。
悔い改めを私は、神にごめんなさいということだと理解してきた。後でふれるように、そうした面が確かにある。しかし、より本質的なことは、神がこの私をとらえ、私に近づいてくださった。それが、悔い改めの本質的なことである。
悔い改めを、イエス・キリストが用いていたアラム語ではシューブという。そして、これは、方向転換である。誰が方向転換をしてくださったのか。人間が方向転換をする。しかし、それに先立ち、神が方向転換をしてくださったのである。だからこそ、イエス・キリストがこの地上にきてくださったのである。
ヨハネの叫び。この天の国が近づいた。この出来事はイエス・キリストにおいて実現した。まさに、キリストは神の到来にほかならない。
私たちが、天の国にいれられるのはこのイエス・キリストという道を通ることによって。ほかに道はない。そして、このお方によって天の国は近づいたのである。だからこそ、天の国に入るとは、このお方を信じることである。そして、キリストを信じるということは、自分とは比べものにならないくらい、大いなるお方を、自分の中に迎えるということなのである。悔い改めはそこから始まる。