2022年02月27日「家族の試練」

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聖書の言葉

イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」
ヘロデが死ぬと、主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて、言った。「起きて、子供とその母親を連れ、イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっていた者どもは、死んでしまった。」そこで、ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た。しかし、アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ。「彼はナザレの人と呼ばれる」と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった。マタイによる福音書 2章1節~23節

メッセージ

本日はマタイによる福音書2章をお読みした。この箇所は二つにわけられる。一つは、2章1ー12まで。これはクリスマスの時に読まれる箇所。もう一つが、2章13から23節まで。こちらは、生まれたばかりの主イエスとその両親がエジプトに逃げて、ナザレという町に住むようになった経緯が記されている。本日は13節から23節までを中心にご一緒に見て参りたい。この13節から23節は3つの段落にわけることができる。それぞれが出来事を記した後に旧約聖書からの引用がある点で共通している。

 一つ目の段落においてはイエスの父ヨセフが夢でお告げを与えられてエジプトに逃れたことが記されている。この段落で意図しているのは旧約聖書のモーセとイエスの共通性。ユダヤ教の旧約聖書解釈を記すミドラシュのモーセ誕生物語とこのイエスの誕生の出来事はよく似ている。なによりも、モーセは奴隷からの解放をイスラエルに与えた。同様にイエスもまた罪の奴隷からの解放を人々に与える。クリスマスはこの救い主の誕生を覚える時。だからこそクリスマスは喜びの時となる。

 しかし、その一方、クリスマスは非常に死の色が濃く描かれていることを私たちは忘れてはならないのではないか。それが16節から18節である。ベツレヘム一帯の二歳以下の男子が殺された。これは大いなる嘆きである。この出来事は罪の表出といってもよい。救いが鮮やかに示される時、様々な力がこれに抵抗する。まさに、闇が光を退けようとする。罪とは神を認めないこと。神に背くこと。そこからあらゆる現実の悲惨があきらかになる。この時もまた当時の権力者の一存で命が奪われた。

 それでもなお、私たちに希望があるのはこの嘆きは希望に向かうということ。このところで引用されているのはエレミヤ書31章の御言葉である。エレミヤ書はこのあと、希望に向かう。そのところを詳しく説明している時間はないが、このところでいわれている嘆きは外国にイスラエルの人々が連れて行かれる捕囚の出来事をさす。そして、この捕囚はおわり、解放される。そのことをマタイは当然しっている。だから、マタイはエレミヤ書を引用して、嘆きの先にある希望をほのめかす。

 この希望は、イエス・キリスト。このお方によって明らかになる。イエス・キリストはイザヤ書11章でいわれている若枝。生まれたてのキリストはまさに若枝のように小さく、弱く、柔らかい。しかし、このキリストが確かな希望なのである。

 マリアとヨセフは生まれたばかりのキリストを守るのに必死だった。しかし実は、キリストが彼らを守っていたのである。懐に抱いているその幼子は真の神であり救い主であった。このお方がいる。それがなによりも希望なのである。

 生まれたばかりの家族の試練。その中心には確かにキリストがいた。このお方がいるのであれば、希望は失われることがない。