2022年02月20日「インマヌエル」

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聖書の言葉

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。マタイによる福音書 1章18節~25節

メッセージ

本日の聖書箇所に、誕生とある。これは、もともとの言葉で、ゲネシスという言葉。英語で創世記のことをジェネシス、というがその語源となった。つまり、このところで聖書が伝えているのは、ただ単に一人の人が生まれたというのではない。まさに、この世界が新しいフェーズに入った。イエス・キリストはその到来のしるし。このお方がどのようにしてこの地上にお生まれになったのかを伝える。

 この物語の主人公はイエスの父、ヨセフである。のヨセフが婚約をしていた、そのところからこの物語は始まっている。その婚約の期間に、マリアが身ごもった。しかもそれは、聖霊の力によって身ごもったのだと聖書は語る。これはつまり、普通の男女間による結びつきではない仕方で身ごもった、というのである。それは夫ヨセフにとって正しくない。このところによる正しさとは、聖書に記された生き方をするという意味における正しさ。ヨセフからすれば、自分がマリアを迎える前にマリアが身ごもったのであるから、普通に考えればマリアがほかの男性と関係を持ったと考える。そこで、ヨセフはマリアと縁を切ろうとした。これは離婚しようとしたということ。婚約はすでに結婚の一部なので、離婚といってもよい。この時に、ヨセフがしようとしたのはこういうことである。この時のマリアは不貞行為をしたとヨセフは考えた。その場合、石打ちの刑に相当する。それが当時の決まりであった。しかし、ヨセフはそれを望まなかった。公に裁判することを臨まなかった。そこで、ひそかに縁を切ろうとしたというのでる。

 この場合、密かに縁を切ろうというのは、二人の証人を立て離婚することのよようである。結婚するときに二人の証人が必要であった。それと同じように、二人の証人を立てて、離婚することができた。そうすれば、少なくとも、マリアが石打ち刑になることはない。

 本来、あるべき姿からすれば、石打刑にした方が法律的には正しいのかもしれない。しかし、ヨセフはそれを臨まなかった。このところでヨセフはマリアを懸命にかばったのである。このヨセフの姿はとても印象的である。決まりだからといって杓子定規にマリアを裁くことをしなかった。かといって、罪を罪としてないがしろにしてもいない。きちんと処罰するべきことは処罰して、それでもなお、マリアをなんとかしたいという思いがあったのである。

 ヨセフは聖書の言葉に忠実である。それは、聖書の言葉にただ従うというのではない。本来、行うべきものは何か。その点をきちんと見極めながら、自分できちんと判断した。そうした、大人の態度をこのヨセフは示しているのではないか。

 それは言ってしまえば、神への愛と人への愛の両立といっても良いかもしれない。もちろん、この決断は簡単ではない。ヨセフは様々な葛藤を抱えていた。その葛藤を抱えるヨセフのそばに、キリストは共にいてくださる。罪からの救い主、神の恵みを与える存在。このキリストこそまさにインマヌエルである。