2022年02月13日「神の愛に貫かれ」

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聖書の言葉

アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。
アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。
ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。
バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。
こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。マタイによる福音書 1章1節~17節

メッセージ

本日よりマタイによる福音書を読んでいく。福音書という書物はすべてイエス・キリストの生涯を記すもの。その内容の多くはキリストの生涯の最後、十字架と復活に多くの部分が割かれている。キリストの十字架と復活、これによって私たちは救われた。キリストを信じるものが救われるのはこの十字架と復活の御業の故である。だからこそ、福音書は丁寧にキリストの十字架と復活を記す。

 この福音書は4つあり、それぞれ特徴がある。マタイによる福音書とはどのような特徴を持っているのか。この福音書の特徴は教えが多い。その教えは弟子たちに対してのもの。キリストを救い主とするものがどのように歩むのか。それがマタイによる福音書のテーマ。

 救いは神から一方的に与えられるもの。その救われたものがどのように歩むのか。これも大切なこと。信仰は信じること。そして信じることは生きること。生きることは具体的で実際的。マタイによる福音書の教えはとても具体的なものが多い。祈りや奉仕についてはもちろん、性や金銭といったものにも及ぶ。マタイによる福音書が記す教えの多くは今の私たちからすればとても厳しく聞こえる。尻込みしたく成るときもある。しかし、こうした厳しい言葉もまた、キリストが力を与えて下さることによって、私たちは実現することができる。

 そんなマタイによる福音書であるが、冒頭部分は人名の羅列、いわゆる系図と呼ばれるもの。この系図が意味するところはイエス・キリストが旧約聖書とは無関係ではないということ。旧約聖書は救い主の到来を予告していた。キリストはその実現である。この関係を預言と成就という。この系図はまさに、キリストが旧約の成就であることを示している。

 旧約の内容は多岐にわたるがその中心は神が民に与えた契約。この契約によって織りなす歴史を救済史という。その中でマタイはアブラハムとダビデをあげている。アブラハムの契約については創世記17章7節、ダビデについてはサムエル記下7章11節後半部分から-15節を参照。

 さて、この系図にはイエスの母マリアを除いて4名の女性の名前が記されている。タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻である。この中でルツを除く3名が罪を犯した人物として描かれる。そのところからこの系図は罪人を救いに招く神の姿を描くものとして理解される。確かにそうである。しかしそれはこの3名の女性をあげるまでもなく、男性も女性も関係なく罪人なのである。私たちを救おうとする神の愛。その神の愛は罪に邪魔されない。神の民の歴史はこの神の愛に貫かれている。私たち一人一人の歴史においても同様ではないか。一人一人の生涯を神の愛が貫く。